【往還集140】10 銀河鉄道の壁画

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▲大川小学校にのこされた卒業制作の壁画。

大川小学校にも立ち寄りました。
はじめて訪れたのは、2011年7月11日。
瓦礫はいたる所山となり、道路も大渋滞していた時期です。
やっと辿りついた私は、波に呑みこまれた校舎の凄惨さに思わずしゃがみこんでしまいました。
けれど校舎裏にある卒業制作の壁画に、とりわけ「銀河鉄道の夜」には目をみはりました。
当時私は賢治学会の理事をしていて、震災基金使途の案を練っていました。
7月末にも理事会があったので、写真を回覧しつつ壁画の保存を提案しました、このままでは瓦礫として処分されるかもしれないと。 
しかし学会が先行するのもおかしな話ではないかという意見が出て、頓挫しました。
そのとき私の気づいたのは、被災圏から遠のけば遠のくほど切実さは失せるのだいうことです。
以来6年経過、壁画は海の水をかぶってもまだまだ色鮮やかです。
貴重な記憶として保存されるよう願っています。
(10月6日)

【往還集140】9 志津川の海・続

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▲さんさん商店街から、旧庁舎の先端がわずかに見える。

踏ん切りのつかぬままいつの間にか7年目に入り、自分の長距離運転も危うくなってきた。
幸い、息子が運転してくれるというので志津川を目指すことになった。
「ホテル観洋」は健在。
高台の建物ももとの姿。
けれど町並は、ほぼ壊滅状態。重機が呻り声をあげ、ダンプがひっきりなしに行き交う。3階建てだった庁舎跡にも近づくことができず、「さんさん商店街」からわずかに遠望できるのみ。
だのに、人間界の彼方に広がる海の美しく、穏やかなこと。
これは、どちらかがウソにちがいない。
ウソをついているのは海か、人間界か。
どちらもホントウであるのは、まちがいない。
帰りは、志津川湾から追波(おっぱ)湾へ通じる海沿いのコースを。
滝浜、寺浜、小滝、大指、相川、白浜、十三浜、吉浜などなど多くの浜がある。
そのどれもが大海嘯を免れることはできなかった。
今日の海は、秋光をたっぷり浴びて輝いていた。
(10月6日)

【往還集140】8 志津川の海

昨日、志津川へ行ってきました。
今は歌津、入谷、戸倉と合併して南三陸町になっています。地理的にいうと、石巻と気仙沼の中間点。
大震災以前、志津川湾の海が見たくて、家内と一緒にドライブしたことがあります。
志津川高校に赴任したことのある同僚が、酔うたびに「あの海はすばらしかった」と何度も語るので、いつかたしかめたかった。
それがやっと実現。
海辺の「ホテル観洋
のフロントへ行ったら予約なしでも宿泊可というので太平洋側の部屋をとり、青々と広がる海を堪能したのです。
その南三陸が、今回壊滅的な被害を受けた。防災対策庁舎では、避難を呼びかけた職員の遠藤未希さんをはじめとする、何人もが犠牲となった。
志津川病院でも多数の患者が帰らぬ人となった。
数々の情報に接するたびに、いつかあの海に立ち頭を垂れねばと思ってきましたが、心が重くなって、なかなか踏ん切りがつかなかった。
(10月6日)

【往還集140】7 山下清展

山下清展へ。
今回で3回目です。1回目は水沢で。「岩手の鹿踊り」というペン画があり、山下自身が「岩手県水沢市へ展覧会に行った時鹿踊りを観に行きました。」と書いている。1956年制作とあるから自分が中学1年のとき。
このときの印象は忘れられません。
水沢にはギャラリーなどまだなかったから、会場は公民館。美術の授業を兼ねて大勢で行きました。
作品をまえにし、精緻な貼り絵にはびっくり、特に「長岡の花火」には息をのみ、以後しばらくは模倣さえしたのです。
今回もまたそれぞれの絵には魅せられましたが、有名人になってからのは、題材が広がったとはいうものの、なにか惨い。
そのかわり以前には気にもとめなかった、ごく初期の「あしなが蜂」「蝶々」「ほたる」などには、ほっとさせられました。
世間から注目を浴びるなど考えもしないこの頃、画家山下清にとって、一番幸せだったかもしれません。
(9月27日)

【往還集140】6 「かっぱ公報」

「あなたはカッパがいると思いますか思いませんか」
といきなり問われたら、一瞬とまどい、
「あれは空想世界のものさ」
とたいていの人は応えるにちがいありません。
ところが存在を疑わず、「かっぱ村」を立ち上げているグループがあるのです。
若柳高校に初任で行ったとき、美術部に多田祐子さんがいました。いまや国際的な洋画家です。
その多田さんが「かっぱ村」の村民で、「かっぱ公報」の編集を担当している。
数年まえから私も読ませていただくようになり、「カッパ」を意識しはじめました。
そうしたら、カッパにまつわる地名やら祭やら温泉やらがつぎつぎと出てくるのです。 
なによりも高校時代の担任が「カッパ」でした(今も健在とのこと)。
そこで「河童一家在此処」(河童一家此処に在り)と大書した垂れ幕を作り、校内行事のあるたびに持ち歩きました。
226号に原稿を依頼されたとき閃いたのはその思い出です。
(9月25日)

【往還集140】5 野草園

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▲ハギのトンネル。

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▲彫刻広場の「風の音」像

その身近な風物へさっそく行ってきました。仙台市野草園。
ここには学生時代以来、何度も足を運んでいますが、最近は近場すぎてずっとご無沙汰。野草やモミ、ナラなどの樹木で埋め尽くされた閑静な園。
ハギのトンネルもある。
そこをくぐると、ひろびろとした草原が開ける。
さらに奥へ行くと「彫刻広場」に出る。
問題はここです。原っぱのどまんなかに「風の音」という彫刻が立っている。1982年建立、制作者は山本正道。頭でっかちの3体が寄り合う。
その様、まるで火星人が降り立ったよう。建立当時から不気味だ、野草園に合わないという批判はあり、私もまた「なんだ、これ?!」と違和感を覚えてきました。
だのに久しぶりに目のまえにして「これもまた、よかろうじゃないか
という、受容の気持が。
耳を傾けても風の音はあいかわらずしない、けれど、「火星人、野草園に現る」もまた乙なものじゃないかと。
(9月22日)

【往還集140】4 スピード感

私の運転歴は40年を越えています。
今なお運転していますが、80歳を目処に〈卒業〉の予定。
目下のところ、完全な無違反、無事故。まだまだ運転能力はありそう。
けれど、それは外面だけのこと。70歳を過ぎたころでしょうか、高速道路に入ったときのスピード感に心身が追い付けなくなってきた。
以前は、それこそ風を切るがごとくに遠距離へと飛ばし、山岳の九十九折も手さばきたくみに走行していたのですが、しだいに恐怖感が出てきた。
もっとも、高速をしばし走るうちに感覚はなれてくるのですが、帰宅したあとの疲労度は若い日と段違い。
老いへ向かう心身が、スピードを拒みはじめているのだ、それならばその変化に順おうではないかという心境になってきました。
というわけで、最近は高速道に入らない。いきおい行動半径も狭くなってしまった。そのかわり、ごく身近な風物を再発見しはじめています。
(9月21日)

【往還集140】3 閖上にて

荒浜から閖上へ。
日和山に立ち四辺を見渡すと、マンションや工場の工事がどんどん進み、その変貌ぶりは驚くばかり。
「りいちまる水産」「浜口商店」「マルタ水産」「ちりめんの鈴栄」┅┅。
ダンプは行き交い、重機は呻り声をあげ、まるで宇宙基地に紛れこんだよう。
大震災があったなんて、ほんと?
けれど、慰霊塔に額づくと、両側には「犠牲者御芳名」がびっしりと刻みこまれている。 
こんなにも、こんなにもいっぱいの人が帰らぬ人となった!時間は容赦なく、どんどん過ぎ去っていく。
けれどこの場所に立つと、過去と現在が一気に重複し、思わずめまいがする。
さて、荒浜と閖上を定点観察地といいましたが、一番近い観察地は、じつは自分自身です。
〈あの日〉を全身で見、感じ、現在もつづいている何か。それについて、機会を見つけては発言してきたつもりですが、まだまだことばとなっていない、それが実感です。
(9月19日)

【往還集140】2 荒浜にて

「往還集」では荒浜、閖上のことを何度も書いてきました。数年まえまでは月に2度、現在は1度ほど行く私の定点観察地です。
海辺に立つたびに何かが変化している。それは場所だけでなく、自分の心も。
南北に連なる東部道路が大津波を遮った。そこをくぐると景色は一変。ことばを失い、胸も押しつぶされんばかりでした。
海水をかぶった田園も稲作不能になり荒れ放題。
やっと土壌改良が終り黄金の穂波が広がっています。
防潮堤も完成し、砂浜には釣り人が数人。ビーチパラソルもあります。
深沼海水浴場として復活するのも近い。それにともない、なお荒れている海の入り口付近も整備されていくでしょう。
数限りなくあった倒木もただの屑として処分されるにちがいありません。荒々しく切断された断面に魅せられ、撮影し、粗描してきた私にも時間がない。
今日も荒草をかき分けて、画帳に手早く粗描してきました。
(9月19日)

【往還集140】1 『忍ぶ川』

原田勇男氏と玉田尊英氏の刊行している詩誌は「THROUGH THE WINND」。 
その37号に原田氏は「三浦哲郎の文学碑と合唱曲・津軽の「四季」」の題で、『忍ぶ川』もとりあげています。
1961年に芥川賞を受賞した当初、私もこの作品に感銘を受けました。
三浦作品としては『白夜を旅する人々』が最高でしょうが、出世作ともいうべきこの一篇は捨てがたい。
たしか単行本を所蔵していたはずと書庫を探したら、新潮社版のがあった。
「私」が志乃と出会うのは料亭「忍ぶ川」。志乃は貧しい生い立ちの女性。結婚することになり、東北の実家へ案内する。
その初夜の艶めかしく、美しいこと。
近くの温泉へ行こうと汽車に乗ったとき、志乃は車窓から見える家を指差して

「うち!あたしの、うち!」

と叫ぶ。
1961年といえば自分は18歳、学生になったばかり。
あの日と同じ感動が再生されたのでした。
(2017年9月14日)
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