【往還集143】10 百花譜

草花で連想されるのは、木下杢太郎の『百花譜』です。昭和18、19、20年といえばいよいよ戦況厳しい時代。灯火管制の下で植物を描く。その数は870枚にのぼり、腕前もほとんどプロ級。
ところで歌人前田康子さんのエッセイ「花の歌 歳時記」を読んでいて福永武彦に『玩具亭百花譜』があると知りました。
これは見たことがない。
取り寄せたら、3巻本。体調を崩して信濃追分の山荘に静養し、草花を描いていったという。
福永武彦といえば池澤夏樹の父親であり著名な作家。
3冊も刊行するとは相当の腕前だろうと開いていったら、こちらはずばりヘタ。
よくいえば素人の味わい。
じっさい、開くにつれて味が湧いてくるから不思議です。
草花に向かい合っているときは、病のつらさも忘れたといいます。
私も最近になって周辺の草花へ心が寄っていきます。
そのうち、「ずばりヘタ」でもいいから、描いていきたい。
(7月23日)
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▲庭に咲いている夏の花。ヒルガオやヒャクニチソウ。

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▲オニユリやアレチノギク。

去年の秋、木の剪定をしたのがきっかけで右肩を傷め、しばらく整形に通いましたが、カラッと治ってくれない。
庭の除草からも手をぬいているうちに、草たちはこれ幸いと伸び放題。
ところが花が咲きはじめたら、どれもこれもが美しく、〈雑草〉などといっては失礼千万。 
このまま、自然の草花園にしようではありませんか。
私が最後に勤めた高校には、月1回の全校をあげての除草時間がありました。放課後の40分程、教師も生徒も一斉に周辺の草取りをする、それはなかなかいいものでした。
ところが1人の男子生徒がそばに寄ってきて

「先生、草だって命があるのになんでとらなきゃならないのですか、かわいそうです」

と問い詰める。
冗談のようでいて、冗談でない。普段から真面目な生徒です。

「それをいいはじめたら肉だって食えなくなるし人間は亡びるほかない」

と、しどろもどろに応えるほかありませんでした。
(7月23日)

【往還集143】8 「マラソン」

空に 紅をはいたような
ある晴れた美しい朝
地の扉を蹴って
マラソンの選手たちが
いっせいにスタートした

世界はあかるく
都市から田園へとつづき
不作をわすれて 田園は
まぶしげに 選手の一団をみおくる
そこぬけにあかるいそらの
どこかに神がひそんでいるような
この均衡は心憎いばかりだ

選手たちの
腕と腕のあわいから
世界がすこしづつながれてゆく

――選手たちは 田園から
ふたたび都市へとはいった
そのとき 沿道の
観衆から
ふかい どよめきがおこった
ざくろを掌にした死児がひとり
かげろうのように
選手のむれと走っているのだ

選手たちの
脚と脚のあわいから
昼は急速に傾いて
たそがれいりにそまりだし
にわかに遠くなった
ゴールのむこう
秋の日は
まるで大きな愁いげな 花を
咲かせたもののようだ
(7月12日)

【往還集143】7 初対面

尾花仙朔は1927年東京生まれ。幼少年期を宮城県七ヶ浜町で育ち、その後仙台に住む。職業は高校の事務職。
私がはじめてお会いした場所も、仙台第二高校の事務室でした。
その日、宮城県高等学校国語研究会があり、松島高校で教鞭をとっていた大和克子も参加していました。
研究会が終ったとき、「通雅さんにぜひ紹介しておきたい人がいる
といって、事務室に連れこんだのです。
大和は塚本邦雄と若い日から交流があり、尾花もまた塚本とは親しい仲でした。
初対面の三浦敬二郎(本名)は、事務長として大型の机に座り、仕事をしている最中でした。
このなんの変哲もない事務員が、練りに練り上げられた、品格ある詩を書く人だなんて!
半ばあっけにとられながらの初対面でした。第1詩集は『縮図』(書肆季節社1964年刊)。そのなかで特に私の好きなのは「マラソン」という1篇。全篇を書写しつつ訣れとします。  
(7月12日)
仙台に尾花仙朔という詩人がいる、と思うだけで私には励ましになってきました。
詩の世界で尾花氏がどういう評価を受けてきたのかはわからない。大衆受けする人でも、マスコミ受けする人でもなかった。むしろ人前でもてはやされることをきらい、孤立した場で詩句を磨き上げ、品格を失わず、それでいて人間世界の歪に対する抵抗精神を貫いてきた。
早くに奥さんもご長男も亡くされ、本人も病気をかかえるようになったため、いよいよお会いする機会もまれになりました。
去年の8月7日晩翠顕彰会役員会があり、そのときにお会いし、少時ながら「路上」へのことばをいただきました。
彼は長い間の「路上」の読者でもありました。
逝去を知ったのは、今朝の訃報記事においてです。
5月22日肺炎のため91歳で死去。
私生活を語ることも好まない彼でしたから、少数の近親に見守らて、ひっそりと逝ったのでしょう。
(7月12日)

【往還集143】5 秋保の田植踊・続

踊も終盤にさしかかったころ、会場席にいた人がいきなり立ち上がって口上をのべはじめます。
それが終ると今度は舞台の長老らしき人が中央に立って、お礼のことばを返します。
この構成はどの踊にも共通していました。前者が「褒め言葉」、後者が「返し言葉」です。 
その1部を「湯本の田植踊」から紹介します。

「しん~暫くう~ 暫し止めし拙者には 東岳(あずま)が下の蛙めで 米の成る木をまだ知らぬ 米の成る木を知りたさに やっとやっと~


「只今御大勢御見物の御中様より どなた様やらは存じませぬが 滔々たる御弁舌をもって、お褒めの言葉を下しおかある段 誠にもって有り難き幸せに存じたあてまつる」

このようなセリフを、おどろくばかりに長々と交換し合う。まるでオペラのよう。
この構成はどのようにして形成されたのか、他の芸能にもあるどうか、大いに興味深いことです。機会を見つけて調べてみます。
(6月30日)

【往還集143】4 秋保の田植踊

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▲秋保里センターに展示されている「長袋の田植踊」の早乙女の衣装

ユネスコ無形文化遺産に指定された「秋保(あきう)の田植踊」を広瀬文化センターで見てきました。
秋保は峠を1つ越えた地にある、私の好きな山里です。
そこに古来田植踊が伝承されてきましたが、現在も保存されているのは
「湯本の田植踊」
「馬場の田植踊」
「長袋の田植踊」
の3つです。
それらを1度に観覧する機会を得ました。それぞれに特徴はありながら、共通点も認めることができます。
開幕すると舞台の奥には、濃紺に花をあしらった衣装の早乙女たちが後ろ向きに並ぶ。長い帯を垂らし、花笠もかぶっている。
その前に弥十郎(やんじゅうろう)と呼ばれる男の子2人が登場し、「口上」を語る。
以下、唄に笛や太鼓もとりいれながら、

「いれは」
「一本そゞろぎ」
「二本そゞろぎ」
「鈴田植・はね太鼓」
「銭太鼓」
「褒め言葉」
「返し言葉」

と展開されていく。それに合わせて早乙女たちが、田植の仕種を舞にしていきます。素朴ながら優雅さも伝わってきます。
(6月30日)

【往還集143】3 教師も間違う

「河北新報」には長期連載の「止まった 検証・大川小事故」があります。
大川小問題の訴訟は、目下最高裁へ移っている段階。訴訟であるかぎりいずれ白黒が決められる。マスコミもまた大いに反応する。 
けれど白黒の決着は、ずいぶん多くのものをとりこぼすものです。
この連載のすぐれているのは、その多くにまで視野を広げ、多角的に検証しようとしているところです。
今日の6月6日付にとりあげられているのは、南海トラフ巨大地震の対策を練る高知県黒潮町について。
小学校の防災公開授業を取材した記者が、終了後に先生に話を聞く。

「教師も間違う。最終的には自分で判断し、命を守れる力を付けてあげたい」

と応える。
私はこの一言に、やっと学校も教師も〈本当〉のことをいい、マスコミもとりあげるまでになったのだと感銘を覚えました。
この点については、「路上」前号の「倒木を描きながら」にも書きました。
(6月6日)

【往還集143】2 100首会・続

場所は和室の大部屋。腹ばいになりながら頭をひねりました。
10まではうまくいく。
20で苦しくなり、50を越えるころは疲れ果てる。
けれど100に達しなければ眠れない。
夜も深まる。
最後のほうはいいかげんに作って、やっと提出。
こうして松島の朝を迎えたのですが、「オレまだできないんだ」と寝不足顔の人がいました。
どうしても完成せず、徹夜したというのです。
その名、小中英之(こなかひでゆき)。
彼は数だけ合わせればいいんだという気持ちになれなかった。ことばひとつもおろそかにできなかった。
そのためただひとり徹夜。
小中は後に出色の名歌をずいぶんのこしました。

「蛍田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹にあひたり」

は代表作。
その後自分は結社を離れましたが、彼との交流は亡くなるまでつづきました。
「正徹物語」の100首詠をきっかけに、小中英之の若き日のシーンが、鮮やかによみがえってきました。
(5月25日)

【往還集143】1 100首会

中世の歌論集に「正徹物語」があります。その「七六」の出だしは

「初心の程は無尽に稽古すべき也。」

初心者の稽古のやり方を説いているのです。要約するとつぎのよう。
1夜に100首、1日に1000首詠む、逆に5、6日かけて5首2首詠む、このように駆け足でやるのも、手綱をひかえるようにやるのも上達の方法、最初からいい歌を作ろうとしたってそれはダメーー。
この1節に私は思い出しました。
まだ20代で結社「短歌人」に入会していたとき、松島で泊まりこみの東北歌会がありました。
その夜いきなり、主宰格の髙瀨一誌から「いまから100首会をやる、出来上がるまでは寝るな」という課題が与えられたのです。
歌会もはじめてなら100首会もはじめて。ビックリ仰天しながらも、用紙の表に1~50、裏に51~100まで番号をふりました。参加者40余人は、必死に作りはじめました。   
(2018年5月25日)
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