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【往還集143】30 秋へ

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▲周辺に咲く、ユリの花。また群落。

この夏の暑さは異常でした。岐阜の病院では熱中症の疑いで5人も亡くなったと報じられていますから、まだまだゆだんはできない。 
歌誌「熾」9月号の巻頭言に沖ななもさんは、暑さを表わす語をありったけあげている。

「炎暑」「炎熱」「熱暑」「厳暑
「猛暑」――。

私が造語するなら「暴暑」、つまり暴力的な暑さ。
その「暴暑」もやっと納まろうとし、朝夕に涼気が出て来ました。
夏から秋への転換期。
この季節になるとあちこちに白く細いユリが咲きます。群生している所もあります。年々種が飛び広がっていったにちがいありません。ヤマユリともオニユリともちがう、ひっそりした清楚さ。花弁の筋が淡いエンジ色になっているのもある。
前者がテッポウユリ、後者がタカサゴユリ。
けれど「テッポウ」が清楚な花にはどうしても似合わない。
植物名には無粋なのがよくあるのです。
ともあれ、ユリのおわりは秋のはじまりです。
(8月31日)
ほかのクラスの生徒まで読みはじめ「先生、ワタシのあのコト、マンガにしてはダメだからね」とあらかじめ口止めに来るのも出てきた。
そのコトもマンガにしたのはいうまでもありません。
当時私は何冊かの学校論も出していました。そのときの編集者もマンガを知り、「佐藤先生のは評論よりマンガがおもしろいから出版しませんか」と話を持ちかけてきたのです。
その褒めようにカチンときて承諾しませんでしたが、本音のところをいえば、趣味で画くならいいとして、本気でやるには基礎をきちんとやらなければダメだということに気付いていたのです。
すなわち人を描くには人体デッサンを積んだうえでなければーーと。
マンガ家の人たちがどういう修行をしてきたのか、すべてを知っているわけではありませんが、優れた描き手はまず人体描写がしっかりしています。
私には基礎から学ぶ時間が、もうありませんでした。
(8月28日)
さくらももこさんが亡くなったという報道に「えっ」と驚いたのです。
8月15日、乳がんで死去、53歳。
さくらさんといえば、代表作は「ちびまる子ちゃん」。
それ以外のこと、つまり作者が何年生まれで、どこにいるのか、いまも生きているのかなど、考えもしなかった。
けれどある日突然死が報じられ、まだこんなに若かったのか、もっと生きたかっただろうなと悔しさが伝ってきたのです。
石川啄木を読んで、自分も短歌を作れると思い立った人は多い。
俵万智を読んで、これならワタシにもできるとはじめた人も多い。
「ちびまる子ちゃん」によってこちらもマンガをやれそうと発奮した人もいる。
ほかならぬ自分がその1人。
クラス通信を発行していたある日、「海の輝く日」というマンガを連載しようと思い立った。
回を重ねるうちになかなかおもしろいという評判に。
なにしろすべてが学校における教師―生徒の実話。
(8月28日)

【往還集143】27 四行詩・続続

吉本隆明は『最後の親鸞』(春秋社)で、和讃の性格は

「〈非詩〉的である」

とズバリいっています。また

「親鸞の和讃には、人間の生死の無常を詩的に色揚げするというモチーフはまったくといっていいほどあらわれなかった。その根柢にあるのは、現世の憂苦も愛憐も諍闘も、すすんで俗にしたがって受け入れ、そこに身をおくことが浄土への超出の契機だというかんがえであった。」

とも説かれています。
ここにヒントがあるように思われます。「俗にしたがって受け入れ」る方向をとろうとしたとき、一般の人々にもわかる形式で、しかも詠ずることによって誰もが参加できるようにした、そのように考えられます。
しかしそれがうまくいったかどうか私には疑問に思われます。
また東西を越えほぼ同時代になぜ四行詩が選ばれたのか、この問題もまだ解き明かすことはできないでいます。
今は未解決の問題として記しておきます。
(8月26日)

【往還集143】26 四行詩・続

「もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
/生きてなやみのほか得るところ何があったか?/今は、何のために来(きた)り住みそして去るのやら/わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!」

こういう詩が出てくるのですから驚きです。
さて親鸞のほうですが、早暁書写として「教行信証」を終えた私は「和讃集」に入っています。
四行詩とするには異論もあるでしょうが、すべて4行で7・5の調子を基本としています。

「智慧の光明(くわうみやう)はかりなし/有量(うりやう)の諸相ことごとく/光暁(くわうけう)かふらぬものはなし/眞實明(しんじちみやう)に帰命せよ」

これは明らかに仏教の教えを4行形式にこめたものです。したがって一般的意味での詩とはいえない。
それなら経典なのかといえば75調にのせて朗詠する点で、そうともいいきれない。
だのに親鸞は、力をこめて相当数作っているのです。
(8月26日)

【往還集143】25 四行詩

ペルシャ生まれのオマル・ハイヤームは1040年ごろに生まれ、1123年没。
親鸞は1173年に生まれ、1262年没。生没年ともにずれているが、同時代といえないこともない。
しかし両者に交流があったとは考えられない。
ただ四行詩をのこしたことでは共通している。
ハイヤームの名は広く知られていませんが、数学・天文学・医学・語学・歴史・哲学などなどに多才、日本の平賀源内的な人物だったということです。
私は岩波文庫の『ルバイヤート』(小川亮作訳)ではじめて知りました。
「ルバイヤート」
とは四行詩のことで、音律・音韻ともに整えられた、民謡に起源を持つ詩型。起承転結があり、押韻形式も持つ点では漢詩と似ている。
ペルシア語を知らない私は押韻を想像するのみですが、訳文だけでも「これはこれは、スゴイことをいっているなあ」と感服するのがいっぱいあります。
1篇だけ紹介します。
(8月26日)
学生のとき国文担当に橋浦兵一(ひょういち)先生がいました。
ある日の講義で『鎖国』は凄い本ですと、ほとんどいきなり話したのです。
それから40数年もたって古書店で偶然に初版本を見つけ、遅まきながら読んだというわけです。

「太平洋戦争の敗北によつて日本民族は実に情けない姿をさらけ出した。」

とはじまり、この国に欠如したものは何かを検証した本です。
検証のために世界の植民地化の経緯を掘り起こしていきます。
西洋とりわけスペイン人のメキシコ、ペルーの侵略ぶりもその過程でとりあげていったのです。
先進国は黄金を手に入れんものと上陸し、異質の文明を破壊しまくる。けれど完全に破壊し尽くすことはできない。
それらが貴重な遺産として残りました。
遺産とは、なによりもそこに人間が生きていたという証です。
私は展示品の1つ1つに魅せられながら、つぎつぎと手帳にスケッチしていきました。
(8月24日)
仙台市博物館で開催中の「古代アンデス文明展」を見てきました。
南米大陸を貫くアンデス山脈に沿った地域に、独特の文化が生まれたという輪郭は知っていましたが、詳しいわけではない。
数年前に和辻哲郎の大著『鎖国 日本の悲劇』を読んだとき、メキシコやペルーについて言及している個所に強い印象を受けました。 
スペイン人がユカタン半島に上陸し原住民に接する。そのとき「程度の異つた文化民族」が存在していることを発見する。
マヤ文明です。
スペイン人の驚きは一種の恐怖となり、占領を果した後その文明を徹底的に破壊する。 
やがてスペインは強力な武力によってペルーも制圧していく。黄金奪取が大きな目的。 
『鎖国』はその経緯をじつに詳しくとらえています。

「ペルーの征服はヨーロッパ人の植民地史上に於ても最も暗黒な頁として認められてゐる。」

の1文は、こちらの胸もぐさりと突き刺すほどです。
(8月24日)

【往還集143】22 「木の家」

秋保の温泉街から西へ奥まったところに「木の家」はあります。
床・柱・天井・テーブル・イスすべてが木材ですから、文字通り「木の家」です。
林に囲まれていて閑静、耳を澄ませば渓流の音もします。
コーヒー館ホールにはピアノも置かれていて、コンサートも時々開かれます。
ここは私のお気に入りの場所。四季の折々に訪れてはコーヒーを口にします。
テーブルのうえの淡い木洩れ日、音もなく行き来するオハグロ、空(くう)を漂うコーヒーのかおり。
こういうとき、

失われた時を求めてーー

というフレイズが浮かんできます。
ほかならぬプルーストの代表作。
若い日に開いたことがありますが、うまく作品世界に入れず途中で挫折。けれどタイトルだけはよく思い出されます。
最近、文庫本の全巻を揃えました。

「時間はどんどん失われるばかり、機会をのがしてはだめだよ」

と、その全巻がこちらに語っています。
(8月19日)

【往還集143】21 〈駅の子〉

私は1943(昭和18)年1月生れです。敗戦の年は2歳7か月ですから戦争そのものの記憶はありません。
しかし今なお鮮明なのは、街角で出征兵士を送ったこと、遺骨としての帰還を何度も駅に迎えにいったこと。
さらに小2のとき、上野駅で多数の駅の子を目撃したことです。
父親に上京の用ができて、兄と一緒に連れていってもらうことになりました。
初めての東京。
上野に降り立ったとたん、多数の浮浪の大人に交じって、これまた多数の〈駅の子〉がいたのです。
その夜は叔父の住んでいる渋谷区富ヶ谷に泊まりました。一帯は広大な焼け野原、あちこちにバラックが建っていました。
戦争が終わって5年、後遺症は殊に首都圏には山のように残っていたのです。
NHKスペシャルで「〈駅の子〉の闘い」を見ました。初めての東京で目撃したのも、自分の年齢とほとんど変わらない、いっぱいの〈駅の子〉たちでした。
(8月13日)
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