2017年10月アーカイブ

あくまでふだんおとなしい妻は、係員をつかまえて「本部はどこですか」と問う。
自分は本部があるなんて考えもしなかった本部テントは、てんてこ舞いの最中。
それにもめげずに妻は、腕章をした一人をつかまえる。
「落し物をしたのですけど」
「どんな物ですか」
「黒いショルダーバッグです」
「あ、サトウさんですね」
バッグは中身に手をつけられることなく、届けられていた。通りがかりの人が本部に持ってきてくれたのだと。
かくして事は一件落着。日本もまだまだ捨てたものではないと、しみじみつくづく思いました。
帰宅してから、今日をふり返りました。時間の一部がすっぽり抜けていることが、どうにも不思議でならない。頭脳感覚からも身体感覚からも、完全に脱落です。
こういうことは、これから何度となく起きる気がする、認知になったらなおさら。
今日の事は、そのための予行演習だったかもしれません。
(10月8日)
ショルダーバッグに入っているもの、財布・免許証・各種カード・診察券・玄関の鍵┅┅つまり自分の半身に相当するもの。
祭と気温の熱気でベストを脱ぐとき、肩からはずした、ベストは手提げバッグに入れた、そこまでは憶えている。けれど以後の記憶はすっぽりと抜けている。
いよいよ認知がはじまったか。
も一度引き返して探すが、あふれかえる人出で、とてもとても。
いっそのこと近くの交番へ行こう。
お巡りさんはあちこちに問い合わてくれる、しかし何処にも届いていない。
やむなし、紛失届を出して帰ろうとして気づいた、金も駐車券も持っていないことを。急遽、妻に連絡、金を持って国分町交番に来てくれと。
タクシーで駆けつけた妻に「紛失届を出したから家に帰って連絡を待つことにする」という。
ふだんはおとなしい妻が毅然として「もう一度探すべし」と断言、自らすたすたと人ごみへ歩き出しました。
(10月8日)
ソフト部の子、生徒間でも絶大な人気があってキヨちゃんと呼ばれていました。
進路相談で将来の目標を聞くと医者になると断言。
しばらくして、経済的にきついから病院の掃除婦になると訂正。
結局卒業後は足利市の設計事務所に勤めて結婚。その地からガリ版刷のはがき通信を出しはじめた。一部は「路上」91号に掲載してあります。
ところがある年、くも膜下でいきなり不帰の人に。
悔しくて悔しくてーー。
そのほか、細倉に関わる思い出は楽しい事悲しいこと、どちらも多い。
寺崎英子写真展に引かれたのも、細倉の思い出がつまっていたから。
一枚一枚、目をこらして最後の一枚まで見る。
さあ帰ろうとしたとき、何だかいやに身が軽いなあという、妙な感覚に襲われました。 
そこで全身を確認。
あっ、手提げバッグはあるのに、ショルダーバッグがない!
いったいどこで手放してしまったのか?
ここからが今日の主題です。
(10月8日)
細倉鉱山は宮城県北の奥地にあります。東北本線石越駅で降り、栗原電鉄に乗り換えます。その終点が細倉でした。
駅に立ったとたん風景は一変、鉱山特有の尖った黒山が林立し、あちこちからは蒸気も立っています。
初任校若柳高校にはここから通う生徒が何人もいました。
最初に担任したなかに体の大きな男の子がいた。芳しからぬ素行が重なり、転校を強いられる(実質は退学)ことになりました。その相談に細倉へ家庭訪問しましたが、すでに遠い親戚に送り出された後でした。
退学の話が出たとき、なぜ自分は「もう少し様子を見させてくれ」と懇願しなかったのかと、長い間悔やみました。
同じクラスに桁外れに楽しい子もいました。一番の成績で入学してきてソフト部に入部、体の鍛錬といって深夜の細倉を発ち、夜明けに学校到着。そのまま朝練。それでいて成績はトップクラス。
けれど今日の話題はこの事ではない。
(10月8日)
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▲定禅寺通り、ケヤキ並木の下のYOSAKOI

さてYOSAKOIも開演時間。
まずは市民広場へ。
舞台ではすでに多数が登壇、所狭しと踊りまくる。観客席も熱気上昇。
しばし見てから、定禅寺通りへ移る。
こちらはケヤキの木洩れ日を身にいっぱい浴びての演舞。
いつしか秋とは思えぬ暑さに。
重ね着していたベストを脱いで手提げバッグに入れる。
このときの自分の持ち物は、ショルダーバッグと手提げバッグ、それに首に吊るしているデジカメ用ポシェット。
ついでに近くのメディアテークにも寄ってみよう、「細倉を記録した寺崎英子のまなざし展」をやっているから。
この写真家を自分は知らなかった。展示パネルには、白黒写真による細倉の風景や住人の生活姿がいっぱい。作者紹介によると、1941年旧満州に生まれる、細倉閉山がわかって撮影をはじめるが、多数の作品をのこして2016年5月、75歳で死去したと。
けれど今日の主題はこの事ではない。
(10月8日)
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▲東北大片平構内のメタセコイア並木

東北大片平構内へ。
大学は教養課程と専門課程に分れていて、2年ずつ川内と片平に通いました。
したがって私にとってどちらも青春の地。50数年まえと同じ校舎や樹木を目にすると、さすがに懐かしさがこみ上げます。
やっと屋根に届くぐらいだったメタセコイアの並木も、今や天空へ届かんばかり。
けれど川内も片平も懐かしいばかりではない。
60年安保後をなお燻る反体制の動向は、学内に根強くあり、集会・デモをくり返していました。
そういうなかで何人かは精神の病を負い、何人かは退学し、何人かは自ら命を絶っていきました。
構内に立つたびに、彼らの面影が若い日のまま甦ります。
私もまた反体制側に身をおき、精神的緊張を何度も味わっていましたが「もう学生の身分は終りにしよう、あとは社会に出て考えよう」と決断し、卒論「太宰治『人間失格』論を提出して卒業。
けれど今日の主題はこの事ではない。
(10月8日)
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▲閉店した熊谷書店

一番町を過ぎて東北大北門の方向へ。
途中はにぎやかな古書店街でした。
学生たちがまだ本を読む時代だったのです。ここではじめて買った本を、よく憶えています。吉本隆明『抒情の論理』。
吉本の名を知っていたわけではない、本気で短歌をはじめようとしていたので「抒情」一語に引かれただけでした。
けれど寮に帰って「エリアンの手記と詩」を読み、

「〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえはあんまり暗い〉」

のフレイズにうちふるえました。
夏休みに帰省し、東京の大学に進んだ同級生が「ヨシモトは、ヨシモトは」とまくし立てるので、はじめて果敢な闘争者と知ったのです。
以来、『民主主義の神話』をはじめとする本を読みに読むことになりますが、その出発点がこの古書店街。
その後次々と消え、「熊谷書店」も9月30日をもってついに閉店。長い間、ご苦労様でした。
けれど今日の主題はこの事ではない。
(10月8日)
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▲一番町壱弐参横丁の前

秋日和。
黄葉のはじまろうとするケヤキ並木。
並木と並木の間には、限りなく澄明な青空が。
願ってもない「みちのくYOSAKOI日和」。
1998年、当時高知大生で宮城県出身の学生が立ち上げ活動をはじめた。それがきっかけとなって年々盛り上がり、いまや全国各地から参加する大イベントに成長。
子どものグループ、若者のグループ、中年のグループ(さすがに高齢者のグループはまだない)が、華麗な衣装を身をまとい、空間いっぱいにはじけ飛ぶ。
久しぶりに心行くまで見物しようと街へと向かったのです、例によって早めの時間帯に。開始まで時間がある。
一番町を北から南へと歩く。
「壱弐参(いろは)横丁」まえのベンチに休むと、曲が流れてきた。
今日は「青葉城恋唄」でなく小田和正の曲。小田ファンの私、きっとキラキラしたいいことあるに違いないと、勝手に予感。
けれど今日の主題はこの事ではない。
(10月8日)

【往還集140】10 銀河鉄道の壁画

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▲大川小学校にのこされた卒業制作の壁画。

大川小学校にも立ち寄りました。
はじめて訪れたのは、2011年7月11日。
瓦礫はいたる所山となり、道路も大渋滞していた時期です。
やっと辿りついた私は、波に呑みこまれた校舎の凄惨さに思わずしゃがみこんでしまいました。
けれど校舎裏にある卒業制作の壁画に、とりわけ「銀河鉄道の夜」には目をみはりました。
当時私は賢治学会の理事をしていて、震災基金使途の案を練っていました。
7月末にも理事会があったので、写真を回覧しつつ壁画の保存を提案しました、このままでは瓦礫として処分されるかもしれないと。 
しかし学会が先行するのもおかしな話ではないかという意見が出て、頓挫しました。
そのとき私の気づいたのは、被災圏から遠のけば遠のくほど切実さは失せるのだいうことです。
以来6年経過、壁画は海の水をかぶってもまだまだ色鮮やかです。
貴重な記憶として保存されるよう願っています。
(10月6日)

【往還集140】9 志津川の海・続

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▲さんさん商店街から、旧庁舎の先端がわずかに見える。

踏ん切りのつかぬままいつの間にか7年目に入り、自分の長距離運転も危うくなってきた。
幸い、息子が運転してくれるというので志津川を目指すことになった。
「ホテル観洋」は健在。
高台の建物ももとの姿。
けれど町並は、ほぼ壊滅状態。重機が呻り声をあげ、ダンプがひっきりなしに行き交う。3階建てだった庁舎跡にも近づくことができず、「さんさん商店街」からわずかに遠望できるのみ。
だのに、人間界の彼方に広がる海の美しく、穏やかなこと。
これは、どちらかがウソにちがいない。
ウソをついているのは海か、人間界か。
どちらもホントウであるのは、まちがいない。
帰りは、志津川湾から追波(おっぱ)湾へ通じる海沿いのコースを。
滝浜、寺浜、小滝、大指、相川、白浜、十三浜、吉浜などなど多くの浜がある。
そのどれもが大海嘯を免れることはできなかった。
今日の海は、秋光をたっぷり浴びて輝いていた。
(10月6日)
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