2015年3月アーカイブ

 夕暮の遺稿は、「わが死顔」だ。

「ともしびをかかげてみもる人々の瞳はそそげわが死に顔に」

にはじまる10首。
前年には、医師から絶対安静を命じられたのに、「詩歌」の経営、執筆をやめない。
翌年になっていよいよ死期を悟り、最後の力を振り絞って歌作する。この一連も追悼特集に遺詠として発表されるが、自分の死顔を見る人々を想定するとは、並のことでない。

「かそかにわが死顔にたたへたるすがしき微笑を人々はみむ」

自分の死顔に微笑さえ浮かぶという。

「生涯を生き足りし人の自然死に似たる死顔を人々はみむ」

ついには、自然死に似た顔とまでーー。
これらはまだ息絶えていない段階での作だから、自分の臨終の空想だ。
「わが死顔」の最後は

「左様なら幼子よわが妻よ生き足りし者の最後の言葉」

やるべきことはやった、もう思い残すことはないという心境での瞑目。
これほど見事な終幕の仕方、おそらく他にはない。
(3月31日)
 前田夕暮の全歌集を読みつづけてきて、いよいよ最後の「夕暮遺歌集」。
その「昭和二十五年」つまり死去の1年まえに「物乞」5首がある。

「ある日老いたる物乞きたれり顔よごれたれど穏かに笑へり」

にはじまる。
この時代、物乞いをして、いくばくかの食や銭を恵んでもらう放浪の人が時々いた。訪ねてきたのは、老人。身なりは汚れているが穏やかな笑顔だったという。

「老いほけし物乞はいふさきの世の母なる人にあはせて下され」

さきの世とは現世に生れ出るまえの世。そのときはこんなに落ちぶれることなく、優しい母親もいた、その母にあわせて下されとは、同じような慈悲をお願いしますということだ。

「さきの世の母なる人が握りたる握飯を一つ下されといふ」

夕暮は大きな握飯を、手に置いてやる。
この場面、東西を超えた宗教性を感じさせる。
自分の子どもの頃も「おこも様」は、聖なる訪問者として迎え入れた。
(3月30日)
傍目にはほんの小さいことなのに、本人にとっては大きなつまずきになることがある。その一例を。
国語の授業ではよく起立のうえ朗読させる。私は新入生の最初の授業を「朗読の苦手な人はこっそり教えて下さい」ということからはじめる。
皆のまえで朗読できない子が、毎年いた。申し出た子を昼休みに呼び、読む練習からはじめる。
数回して自信がついたところで、実際に教室でやってみる。
順番に朗読し、その子の番になると脇に立って、こちらも小声で一緒に読んでいく。
はじめはほんの数行。しだいに行数を増やしていく。
くり返していくうちに、ついにふつうに読めるようになる。
授業が終ると追いかけてきて「先生、できた!」と、満面に笑みを浮かべる。
こういう子が毎年1~2名はいた。いつかどこまでつまずいて、そこから抜け出せなくなっていたのだ。
この個人練習の過程を、他の生徒はだれも知らない。
(3月29日)
忘れること自体はけっして悪いことではない。善とか悪とかをこえた自然現象ともいえる。
だから4年もたてば記憶から薄れることもありうるし、こちらだって生々しく甦っていたのでは心身がもたない。
だが、忘れることを強いられる、策謀されるとなれば事はちがう。
目下仙台を会場に国連世界防災会議が開かれ、明日閉幕する。
その一会場となっているメディアテークへ行ってきた。

「これは、なんだ?!」

が自分の第一印象。
3・11といえば津波と原発事故。そのうちの後者が小さい扱いしか受けていない。開会時の首相挨拶も同じ。
これはどういうことだとはじめは訝しみ、しだいに怒りが込み上げてきた。
国連が避け、政府も避け、つまり記憶からの抹消を策謀するこの動向。
さすがにひとつの部会からは批判が相次いだ。
忘れることを強いようとする、巨大で得体の知れぬ力、それが世界会議のどこかに潜んでいた。
(3月17日)
「埴土」とは、粘土質を50%以上含んだ土壌。耕作には不向きだ。
その語を歌集タイトルにした『埴土地帯』が、前田夕暮にある。
空襲で危険になった東京を逃れ、奥秩父入河谷に疎開したのは1945年2月、63歳のとき。
チモールに出征した息子透は病で帰国不能の知らせがあって、ひどく落胆する。
しかし翌年6月に復員の報が入る。
そういう苦難を重ねつつ、安堵を得た日の作品に

「石の上に眠りてありし時のまにうつろひにけりわがうつし世は」
「ひそひそと水の流るる音きこゆ生きあましたるわが世愉しき」

がある。初老の年齢で山深い農生活に難儀しながらも、しだいに周辺の自然とも村人とも親和していく。
ぬくもりのある日には、石の上にうたたねする。
「生きあましたるわが世愉しき」という心境にもなる。
疎開生活1年8ヶ月の間に、歌人夕暮の手にしたのは、生と自然の融合という、大いなる境地だった。
(3月6日)
同じ家に住んでいる遊女。ふたりとも子どもを生むが、一方が寝ていて赤子に伏せたために死なせてしまう。女は別の子を自分のものだといいはり、ソロモン王の裁きを受けることになる。判決は剣で半分に裂いて分けるというもの。

「わが主よ、お願いです。その子を生きたままこの人にあげて下さい」

と一方が訴える。
この有名な逸話を旧約「列王記 上」でまともに読んで、いきなり現代にひきつけて考えてしまった。
第1、DNA鑑定があれば解決できたのになあ。
第2、遊女とは今でいえば風俗嬢、シングルマザーとなってまでも育てようとは立派ではないか。
そして第3、本当はこのふたり、王が剣を振りかざして真っ二つにしようとしたとき、どちらも「その子を生きたままこの人にあげて下さい」と懇願したのではないか。
最近、自分の近くにも、赤子をめぐる悲劇あった。だからなおさら、このように考えたくなった。
(3月3日)
母方の祖母は大地主かつ大商家の娘として、なんの不自由もなく育った。
やがて養子を迎え、息子2人、娘4人をもうける。
ところが次男は旧制中学入学の寸前に、急性腹膜炎で早世。長男のほうも戦中に結核になり、10年間の闘病ののちに、戦後ほどなく夭折した。
この不運に祖母は人間不信に陥ってしまった。
我が家は同じ敷地内に住んでいたから出入りが日常で、墓参りにもお供することになったのである。
墓地に着くと祖母は、二つの卒塔婆に花と線香をあげる。
それから卒塔婆を抱きしめ、「和男!」と呼びかけて号泣する。
つぎに「寿郎!」と呼びかけて、また号泣する。
このいきなりの変身に、最初はあっけにとられ、怖れをなしたが、回を重ねるにつれて慣れ、泣き終るまでかたわらで待つようになった。
帰りはまたネコの玉の石段で一休み。
「泣いだごど、だれさもだまってろよ」といって、青い玉をてのひらにのせてくれた。  
(3月1日)
リュウノヒゲは、青い小さな実をつける。それを私は子どもの日に「ネコの玉」と教わった。
コネコがころころころがして遊ぶような、愛らしい玉の実。
前沢の霊桃寺(れいとうじ)は山の中腹にある。墓地へ行くには、さらに細い山道をのぼる。境内を出た所に石段があり、そこにネコの玉はいっぱいだった。
私は祖母のお供をして、何度も墓参りした。老いた人にはなかなかの難路、石段まで来ると一休みするのが習いとなった。
そのたびにネコの玉が目に入る。日差しに、きらきら光り、なにか神秘的な感じもした。 
近くにはスズ(湧水の池)がある。そこで持ってきたヤカンに水を入れ、いよいよ墓地へと坂をのぼっていく。祖母にとってはここもまた難路だ。
「みづまさ(みちまさの訛)、手っこ、引けろ」というので、手を引いてやる。
自分は、まだ6、7歳。ヤカンを片手に下げ、もう一方の手は祖母の細い手を握ってやる。
(3月1日)
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