2014年11月アーカイブ

戦中派のもうひとりの先輩教師についても話したい。
自分の初任校の教頭だった久保田三郎先生。彼は温厚な性格で、酒の席では踊りまでやる人だった。
家族4人で大陸に渡り、牡丹江に住む。その地で本人は召集され、終戦となってシベリアへ抑留。
妻と娘2人は日本へ逃れようとするが、長女を見失ってしまう。
帰国した妻、次女は間もなく衰弱死。
そののち本人も帰国し、死亡公報を断りつづけて長女を捜しはじめる。
初任校での出会いは、そういう時期だった。自分と同期の教師は何人かいたが、娘たちと同じ年齢のせいもあってか、なにかと可愛がってくれた。
やがて久保田先生は定年退職し、自分も転勤する。
1978年のこと、新聞を開いて

「33年ぶり娘から手紙 父親と呼ばれ感激」

のタイトルが目に飛び込んできた。
長女の名前は祥子(さちこ)さん。長春の人に拾われ大切に養育されていた。
久保田先生も、もう故人だ。
(11月30日)
高倉健追悼のテレビ映画「ホタル」を観た。特攻隊のドラマだ。韓国出身の青年も出てくるから、事は複雑。
が、今は映画でなく、特攻に関わる話をしたい。
自分が教師になったとき、先輩教師には実際に召集された人、戦禍に巻き込まれた人は何人もいた。
なかに特攻を志願し、飛び立つ寸前に敗戦を迎えたという人もいた。
その幸運を喜ぶべきところ、彼は「だまされた」ことに人間不信に陥り、特攻くずれを自称していた。
同僚ともうまく交わろうとせず、したがって職場での評判はすこぶる悪い。
「もう、誰にもだまされないぞ」と、自分の殻に閉じこもるだけ。
私は後輩として、通り一遍の礼儀は尽くしていたが、彼の内面にまで入り込むことはできなかった。
ただ、戦争とはかくまでも人の心を歪めてしまうものなのだと、思いやるばかりだった。 
彼の訃報は、数年前に新聞で知り、ひそかに冥福を祈った。
(2014年11月29日)
震災詠に関連して、短歌と俳句のことをこれまでになく考えてきた。
短歌に比べて俳句は沈黙度が大きく、それが震災詠を深くしていると私も認める。
ならば俳人も沈黙度において勝るかといえば、私の勝手な印象ではそうではない。作品の沈黙の反動かと思うばかりに、饒舌で我が強く自己解釈にこだわる人がけっこう多い。 
照井翠に

「双子なら同じ死顔桃の花」

がある。釜石での被災体験から生まれた。
「これは名句なのか?」(『俳句』2014年9月号)で恩田侑布子は、双子なら同じ死顔という断定を平凡な一人の母として肯うことができない、人は一人一人死顔がちがうと批判している。
いうまでもなく、双子とはいえ顔も性格もべつだ。
だが照井は、被災の直下にいて犠牲者を個々でなく、まず類として受けとめた。
個々に目が行くのは圏外にいて客観視できる人だ。
こういう落差の存在に恩田の目は届いていない。
(11月17日)

最近読んだ本でずしりと手応えを感じたのは、加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社)とリリアン・フェダマン『レスビアンの歴史』(筑摩書房 富岡明美・原美奈子訳)だ。
まるで入口のちがう書のようだが、思わぬ共通項のあることに気づいた。
『レスビアン』は、女性間の「ロマンチックな友情」が性科学者によって「レスビアン」と概念付けられ、病理とされていく過程を丹念に掘り起こしていく。

「セクシュアリティは複数あるアイデンティティーズの一つにすぎない」

ところまで解きほぐしていく。
この到達点は、加藤がゲイの問題で語っていることと共通する。
すなわちこれまではゲイであることをカミングアウトするに力みを要したが、今や「語ることも語らないこともできる」という、新しい自由の考えが出てきたという。
この2冊の大著を、一言でいうのはむずかしい。とりあえずほんの一言を。
(11月14日)
郵便局の窓口の人が、そんなに買って大丈夫ですかといってくれればーー。
ハガキを2束400枚買った。音信することがけっこうあるのでいつも束で用意する。 
ところが半月もたたないうちに消費税が上り、2円分足すことになる。音信もメールですませることが増えてきたので、なかなか減らない。
切手の図案は白兎。増税の反感を収めるためにかわいい動物を使ったというのが、もっぱらのうわさ。
よし、逆手にとって「うさぎ通信」を発信し、放射能の状況を知らせようではないかと思い立つ。
この兎、セシウムの森にひっそり屈んでいるイメージがある。
だのに心は萎えた。
本当の放射能の害は生活に密着している。自分のまわりでも、山菜や野生動物の食品化が今なお禁止されている。山全体を除染するなんて、ほとんど不可能。
白い兎のように、ひっそり屈みつづける、そういう無言の抵抗もあるのではないか。
(11月13日)
宮城県美術館のミレー展へ。
外人画家ではじめて覚えたのは、ミレー。小学の教科書に出ていた。
甲府行の折、山梨県立美術館所蔵の「落ち穂拾い」に会わんと胸を高鳴らせたが、不運の休館日。
今回はしっかりと対面することができた。想像していたよりも美しい絵だ。ふたりの農婦が、腰を屈めて落ち穂を拾う。傍らにもうひとりが、腰を伸ばす。この構成が律をなしている。
先月読んだばかりの旧約「申命記」24を思い浮かべる。この個所を文語訳で引用してみる。

「汝田野(はたけ)にて穀物を刈る時もしその一束を田野に忘れおきたらば返りてこれを取(とる)べからず他国(よそぐに)の人と孤子(みなしご)と寡婦(やもめ)とにこれを取(とら)すべし」
こういう聖書世界が絵の背後にはあるだろう。
もっとも落ち穂拾いは自分も小学生のときにやった。野外授業と称して、刈り入れの終わった田んぼへ一斉にくりだす。半日、落ち穂を拾う。それが学校の教材費となった。
(11月12日)
田井安曇(たいあずみ)、本名我妻泰(わがつまとおる)、通称我妻泰(わがつまたい)。
1930年長野県生まれ。11月2日、肺炎で死去、享年84歳。
長く闘病生活していたから覚悟はしていたものの、やはり寂しい。
彼は教師時代、60年安保にまともに遭遇し、組合活動の闘士となる。
その後も思想性を揺るがさず、「綱手」を立ち上げ、同志と砦を守りつづけてきた。
私は『水のほとり』の、

「とどまるというひとつにも弩(いしゆみ)のごとき努力をして過ぎむのみ」

「闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ」

「ためらわず朝鮮服の少女来る通りすがいて涙ぐましも」

などが好きだった。
思想性、意志性、抒情性の渾然一体となった瞬間。
その後瑣末リアリズムの歌が多くなったのは、惜しい。
それ以上に「タイアズミ」などという軟弱な筆名にしたのが気に入らず、本人にも伝えた。
彼はどんな弁解もしなかった。
そういう人だった。
また一つの時代が終わる。
(11月9日)
むかしむかし、もりのなかでツキノワグマさんがイノシシさんにあいました。
「イノシシさん、ひさしぶりですね。ずいぶんおこさんがふえましたね」
「これはこれはツキノワグマさん、そちらこそ、ごかぞくがいっぱいじゃありませんか」 
「そうなんですよ、なにしろ、あのニンゲンってやつが、ちっともてっぽううちにこないんですよ」
「やっぱりそうですか、こちらもおなじです。で、なんだがかえってきみがわるくて、このまえ、さとをのぞきにいってきました。そしたら〈イノシシなべ〉ってかんばんがきえているではありませんか」
「わたしも、とうげにいってみたら、〈クマそば〉がなくなっていました。かえりみち、シカさんにあったら、やっぱりおなじことをいってましたよ」
「ニンゲンって、このよでいちばんのワルだとおもっていましたが、もしかしたら、ほんとうはいいものだったのでしょうかねえ」 
「もしかしたらねえ」
(11月8日)
タカの気持ちがわからないわけでもない、なにしろ相手の名前がヨダカ。同類にみられては困ると脅して、「市蔵」への変名を要求する。
川内(せんだい)原発の名が出てくるたびに、仙台原発と勘違いする人もいる。
さすがに名前をかえろとまではいえないが、「センダイ」を耳にするたびにギクリとする。 
その九州電力川内原発が再稼働へ、猛進かつ盲進し出した。他の原発もつぎつぎに再稼働したがっている。
もう、この国はダメなのだろうか。
私は半分あきらめの気分になり、それでもあきらめきれずに、絶対的権力者になった自分を夢想する。
壇上に立った佐藤氏、施政方針演説にいわく、

「1、原発は、電力を使う都市に建設すべし。2、汚染物貯蔵所は、原発設置都市に建設すべし。3、担当大臣及び電力会社幹部は、家族ともども原発設置都市に居住すべし。4、稼働は、事故への対処法が確立するまではけっしてやってはならぬ。」
(11月8日)

【往還集131】23 虹

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▲大きく出た虹

一夜の雨風が朝になってあがり、大虹が出た。
住んでいる所は山を切り開いた高台にある。北方には泉ヶ岳方面の峰々が連なっているから、時雨の季節になると虹がよく出る。
虹は、いつもふしぎだ。手放しで、人を喜ばせる。「虹、虹だよ」と、どの人にも知らせたくなる。知らされると、縁もゆかりもない人なのに、旧知の間柄の気分になる。
今日は時雨が断続しながらつづいたため、朝に出て昼に出てさらに午後まで出た。寒さはいやだが、ひどく大儲けした気分。
引っ越してきて間もなく、何度も虹を見ているうちに、ふっと疑問が湧いてきた。

「分度器立てたなら倒れてしまうのに、なぜ虹は倒れないのだろうーー」

思案したはての答はつぎのよう。

「虹は真ん丸なのに半分は地中に隠れている。隠れたところは少しもいばったりしない。」

この〈名案〉を歌にしたが、われながら理屈っぽくて、とても秀歌とはいえなかった。
(11月3日)

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