2014年6月アーカイブ

作者についても背景についても、全く予備知識なしに歌集を読むことがある。いうなれば付加価値をはじめから脱落させた読書。
そういうとき、予期せぬ驟雨を浴び、爽快さを覚えることがある。今日読んだ『体温と雨』もまた。

「はなびらの踏まれてあればすきとほり昼ふる雨の柩と思ふよ」

「さむき額さむきなづきに触れしとき昼のひかりがひとつ亡びる」

桜が終わり人出もとだえた場所、そこに透明な雨が降る。「昼ふる雨の柩」これがいい。寒い額と頭に触れる光の触覚、そして亡びの予感。
作者が何歳か、どういう歌歴か、なんの情報も持ち合わせていないが、これらの歌には未生の感性が生きていると感じる。未生と亡びは対極にありながら、限りない近さでもある。
もう少し引用する。

「パスしあふ少年ふたりの影は濃しときどき低い木のやうに立ち」

「わたくしであることの疲労 コンビニに入るとき赤い傘をたたみぬ」

(6月19日)
自分語りの要素の濃厚な短歌について考えておきたい。
自己像を持ちこむのを否定して、虚構を貫く作風は過去、現在ともにあるが、広く長く読まれるのは、どうしても自分語りの方だ。 
万の数の震災詠を読み、選出し、番組構成したりする立場に置かれた私は、絶えずこの問題に直面してきた。
被災しなくても、したかのごとく詠うのは自由だ。
ただし作者にインタビューする段になると、実体験かどうかがばれてしまう。
そこであらかじめ、作者の住所にも気を配る。
ところがしだいに被災圏外の住所もふえてきた。特に福島は他県へ大勢の人が避難しているのだから。
結局は作品の迫力を決め手とするほかない。作品=作者である必要はない。これは一般論であり、自分の考えでもある。
だのに「震災を詠む」の番組収録で、なまの被災者をまえにしたときの緊迫感はいつでも圧倒的。
このことをどう説明したらいいのだろうか。
(6月17日)
優れた評論を読んだときの充実感、爽快感は優れた作品を読んだときのそれと全く変わりない。つまり評論も作品である。
山田消児「佐村河内守になりたくてーー物語の中の作品と作者――」(「ES」第27号)はそんな評論だった。
佐村河内(さむらごうち)といえば、耳の障害、ヒロシマ、それに震災をとりいれて商品価値を高めたミュージシャン。全聾でないこと、ゴーストライターの存在していたことがばれて、世情を波立たせた。
山田は情報という付加価値と作品としての自立の問題に焦点をしぼっていく。短歌の主流は自分語りの歌にあるから、他人事ではない。

「物語が作品の外側ではなく内側にあるのなら、短歌は自分語りだという世の人々の先入観を利用して、合法的に佐村河内になることだってできるのではないか」

この一文が示唆に富む。短いスペースでは紹介しきれないので、関心のある方は原文に当ってみてください。
(6月17日)
物好きにもというか、なんというか、AKB48の写真集を買ったり、DVDを買ったりしている自分であり、総選挙の放映を終始観ている自分でもある。そして危なっかしいなあと思いつづけてきた自分でもある。
CDを買えば握手できるし、投票権も獲得できるというアイデァを考えたのは見あげたもの。
けれど、買えば買うほど握手の時間が長くなり、投票回数もふえるとなれば、無理しても金を注ぎこみたくなるのがファン心理。なにしろ金を積む分だけ、なまの触れ合いが楽しめるのだから。
この方式を突き詰めたところにあるのは、〈売春〉では?禁断の性の危うさと「アイドル」の清純イメージをせめぎあわせるところに、熱狂が生じるのでは?
写真集を開けば、肌もあらわな水着姿がずらり。このきわどさと禁断の恋は両立しがたい。十分に危ういではないか。
岩手県滝沢の握手会で、とうとう事件は起きてしまった。
(6月16日)
『短歌』5月号に「特別企画 新資料公開 永井陽子」がある。高校時代の未公開作品、俳句、短歌、小説を特集したのだ。
永井は繊細な歌を作りつづけ、本当の評価はこれからというときに自死してしまった。以来歳月を重ねるから、もう忘れ去られるばかりだと思っていた矢先の企画。うれしく、なつかしかった。

「雨あがりの木々の緑は永遠の陽の使者として我に降り来る」

永井の「永」と陽子の「陽」が読みこまれていると気づいた(偶然かも知れないが)。
永井陽子を最初に見た日のことが今でも鮮明だ。御前崎で「短歌人」の夏季集会があったとき。懇親会で自己紹介することになった。順番になり、ひょろりとした姿で立ちあがった女性が小声で、まだ高校生ですという。参加者のなかで、最年少だった。
場ちがいな所に立っているような危なっかしさが、以来眼裏に住みつづけ、自死を知ったときも同じ姿だった。
(6月15日)
強い雨が3日つづいた。やっと晴れたので畑へ。
あれ、これはどうしたこと?!
一瞬、棒立ちに。
種イモを植え、葉が勢いづいてきたジャガイモの畝、そのことごとくが、乱雑をきわめている。咲きだした薄紫の花も、めちゃくちゃ。
イノシシにやられっちまった!
あちこちに足爪の痕跡もあるから、まちがいない。
この地区は山と畑の境に網を張っている。そのうえに春先にはシシ追いもしたから、安心していた。それでもダメだった。
わずかに残っている新ジャガを、みじめにも集める。バケツ一杯分。家に帰って茹であげたら、ホコホコして、それはそれはおいしかった。
この旬の味を、鼻で豪快に掘り起こし、豪勢に味わったというわけだ。しかも他の作物には見向きもせず、新ジャガだけというのが敵ながらあっぱれ。
満腹して山へ帰っていくイノシシファミリーを思い描き、悔しいには悔しいが、なぜか憎めないのだった。
(6月14日)
地味で、華麗に踊り出ることはないけれど、歳月と共に確かな世界を開いていくに違いないと、内心期待している歌人が何人かいる。松村正直はそういうなかのひとりだ。
この人には、自分の突出を抑える何かがある。もしかしたら、これまでの過程のどこかで遭遇した、自分の存在自体への断念感かもしれない。
そこに生じる眼差しは、あらかじめ大仰さを排しつつ、この世に潜む深淵を、過つことなくとらえる。
スペースのある限り、作品を抄出していきたい。

「抜きながらさらに外より抜かれたる自転車あわれ順位を変えず」
「踏切に列車過ぎるを見ておれば枕木はふかく耐えているなり」
「直線に触れんとしつつ触れぬまま遠ざかりゆく曲線を見つ」
「日の当たる螺旋階段のぼり行く人の姿はうらがわに消ゆ」「ひとすじの滴のごとく青き空より垂れながら窓を拭くひと」
「見ることと見られることの交わりのなかに点りてしずかな林檎」
(6月10日)
随分長い間和歌の世界が苦手だった。『万葉』はともあれ、『古今』『新古今』になるとお手上げ。雲のうえの貴族文化、技法の限りを尽くす歌。これらのどこがいいのか理解できなかった。
そういう自分の目を開かせてくれたのは、錦仁氏のこれまでの、数々の和歌論だ。
その一つ、「和歌の思想―俳句を考えるために」(『俳句の詩学・美学』角川学芸出版)。

「和歌は自然をとりこんで人間を表現する。そして、自然は人間をとりこんで表現される」「見ている対象と見ている自分が一体化している。自然と人間が重なり合って、区別しがたくなっている」。

掛詞や縁語が生きるのは、こういう認識があったのであり、そこには世界を認識する哲学さえあったのだという。この巨視的とらえ方に、文字通り目を開かされた。技法は技法として固定化される以前、その源には哲学が生きていた。
私は、和歌の世界を虚心に読み直してみようと思い立った。
(6月9日)
71歳になったというのに、裁縫に挑戦できるか。なにしろ糸も針も細かい。
まずは手はじめに手縫いでやってみようと、エプロンに挑戦。苦心しながらも、なんとかできた。
これなら可能性ありと、ミシン購入に走る。もう足踏み式の時代ではない。早速、箱から出し、準備にかかる。
ここで私は想定外の壁にぶつかった。足踏み式は原理が簡単だったから、今度も一気にやれるだろうと高をくくっていた。
ところが性能のいっぱいつまった機械、説明書とにらめっこしてもうまく事は運ばない。 
思い返せば、ワープロもパソコンもケータイもそうだった。初期設定という大関門がいつでも立ちふさがり、イカイカしながらもやり遂げて来た。
今回も試行錯誤を重ねた末に、やっとのことでスタートラインに立つことができた。あくまでスタートライン。
いやはや。
さて、これからどうことになるだろうか。そのうち報告します。
(6月8日)
またまた、バッカなことをはじめたものだねえと、自分にあきれかえる。ただでさえこなしきれない仕事をかかえ、合間に耕作し、編み物までやっているというのに、今度は裁縫をしたくなってしまった。
これにはわけがある。子ども時代に住んでいた家は、母親の実家の敷地内にあった。実家には裁縫士の伯母がいる。その作業場に潜り込んでは「装苑」を絵本代わりに開き、ミシンもいたずら。当時は足踏みだから短い足で踏む。それでも小1のときにマスターしてしまった。小5になってこちらが引越してしまい、ミシンから離れてしまった。
けれどあの歓びは潜伏していたらしい。今になって服飾誌を毎月のように開き見る。鷲田清一の服装論で、この分野の奥深さにも目覚める。
けれど、見る、読むの〈机上の空論〉では何かが決定的に足りない。実際に作ってみなければ、感触がわからないという思いが募ってしまった。
(6月8日)

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