2013年7月アーカイブ

20代の半ばにデビュー作『新美南吉童話論』を出した。「路上」に「新美南吉論」として1968年から連載したのを、巽聖歌が出版へとつなげてくれた。さらに日本児童文学者協会新人賞も得ることができた。
その選考委員のひとり、「でんでんむしの かなしみ」のようなとるにたりぬ童話を発端としているのが、本書の傷だと書いている。評論の何たるかも知らない委員がいることに、内心がっかり。わずか3枚の幼年童話との出会いが、自分を新美南吉論へ駆り立てた、それは訂正しようがない。南吉といえば「ごんぎつね」「てぶくろを買いに」だから、ほとんど顧みられてこなかったのは確かだ。
1998年に美智子皇后は「子供の本を通しての平和」の基調講演をビデオで行い、「でんでんむし」を取りあげた。以来、広く知られるようになった。
あのときの選考委員、やはり「とるにたりない」というだろうか。
(7月30日)
新美南吉の生誕100年を記念して『新美南吉―悲哀と愛の童話作家』(別冊太陽)が刊行された。監修者の一人に、保坂重政氏の名が出ている。
保坂氏は編集者として新美南吉全集に携わったばかりでなく、巽聖歌亡きのちの南吉原稿を管理すべく、委員会設立に奔走された。当時私は巽と親交が深かったところから、保坂氏と二人で整理に当った。家のなかは本、雑誌、書簡、原稿などなど散乱状態。まずは南吉の生原稿を探し出さねば、ゴミとして処分されかねない。猛暑のさ中、二人は必死だった。
数日間奮闘、やっとあちこちから幾つかの束を見つけることができた。代表作の生原稿は、こうして無事に保存されることになった。この過程を保坂氏は表立っていうことはなかった。私も一愛好家の立場にいたいと伝えて、表舞台から去った。
その新美南吉。忘れられずに、広く愛好されているのは、静かなうれしさだ。
(7月30日)
富士山がとうとう世界遺産に。遺産とはいっても遺物化するのでなく、今後も生き続けるという条件だ。
ところで、かねてより「短歌を世界遺産に」と考えて来た。そのことを某氏に話したら「それは短歌が亡びたあとのことだろ」と一蹴された。「いや、未来へと生きる意味を含んだ遺産なんだ」と、そのときは強くいえなかった。いまは、いえる。
私の構想する短歌の起源は、国家生成時代をはるかにさかのぼる。文字ができる以前の、声の文化まで。短歌は現在でも声の要素を含み、なおかつ現在的表現としての生命も持つ。こういう表現形式、世界の他にあるだろうか。しかも声の文化は人類の祖をも呼び起こす。そこも視野に含めて、日本語の生成、民族性、万・古・新、近世、近代、戦時、短歌否定と再生、現代へと辿る。
申請書はおよそ1000巻の量。短歌をやるなら、これぐらいの覚悟は持ち続けたいではないか。
(7月29日)
思いついて紙片の書いた、ほんのメモです。

「棄民とは民を棄てることでなく、棄てられた民のこと。同じことのようなれど。」

「森のまえで、雨に会った。雨は糸となって降る。どうして棒とか塊でなく、糸となるのだろうか。」

「腕をかくし、顔もすっぽりとかくす人がふえてきた。〈ひと〉をかくすには、あとどんな方法があるだろうか。」

「梅雨明けを待ちきれずに、サマーニットの手編みをはじめた。編み物をしていると、いつでも、自分が自分にもどっていく。」

「霧雨のなか、子どもたちがラジオ体操をしている。頭上のネムの花も一緒にはじめた。」

「コンクリートのすきまに草が芽をだし、丈をのばしていく。この芸当はいつもみごと。」
「神は天地創造をした。人間が知る以前にすでにいた。知られるまでの、なんとなんと長い孤独。」
(7月27日)

【往還集127】21 またしても、ほんのメモ

「あまり親しくない人に書庫を見せて欲しいといわれたことがある。書庫は魂の秘密基地ゆえお断りした。テレビの番組で、家で仕事をしているシーンを入れたいといわれたことがある。家は魂の秘密基地ゆえ、お断りした。」

「セックスレス夫婦が老いて仲良くなったという記事を読んだ。なんだか、いい話だ。」

「寝たきりのぼけ老人が女性介護士に手を伸ばすうちに、腕の機能が回復したという。この実話、おかしくって、おもしろくって。」

「「いいね」の軽っぽさが、いつも気になる。「いい」「だめ」だけで割り切れるわけがない。」

「舞台を観にゆくと下駄ばきの登場する場面がある。ガタガタというあの生の音。板は全身で痛い、痛いと悲鳴をあげている。」

「〈拾ったネコです、大切にしてくださる方にさしあげます〉と、錦が丘祭のテントのまえに。ネコはあくまで静かに、カゴのなかに鎮座していた。」

(7月28日)
川口はさらに

「国籍を異にすれども、憎み合う要なき世界 必ずや存することを 兵われに教えし二人 今何処でいかにか生くる。」

と述懐する。そして反歌

「水飲むが如くに無心なる一途さに躊躇(ためら)わず乳房与えし女人」

と、詠う。
私もはじめは、この信じがたい話に感銘した。しかし、くり返し思い返すうちに、果たして美談として受け止めていいのだろうかという疑問が湧いてきた。「その女人静かに応じ」とあるのは、もしかしたら圧倒的な力の日本兵への屈服だったかもしれない。征服者のほうは、そういうことに案外鈍感だ。
私はここで児童文学『シラカバと少女』(那須田稔)を思い起こす。少年時代を満州で過した体験をもとに、少女ミンチュウへの思慕が綴られる。刊行されて間もなく、征服者としての懐旧ばかりで被征服者の心に届いていないという批判が出た。
川口の歌も、同じ観点から再度検証しなければなるまい。
(7月21日)
宮柊二『山西省』論を進める過程で、いつかは取り上げなければと考えている歌集がある。
川口常孝『兵たりき』だ。中国出征体験をもとにした歌群で構成される。
そのなかに「渇を癒すと」の長歌+短歌がある。水を欲する日本兵が民家に入る。赤子を抱く若い女性がいる。一人の兵が赤子を「われ」に託し、女性の胸乳を吸って渇を癒す。

「その女人静かに応じ 拒む気配全く見せず 吸わるるに任せて暫し 時の流れに己を委ぬ。ようやくに出ずなりにたる 乳房に深き礼(いや)して その兵のそこを離れぬ。その刹那思いも寄らぬ 極まりし慟哭の声 兵の身を根こそぎ揺すり 朝寒の空気震わす。」

このように感動的な描き方をしている。川口常孝には、真に迫る戦争歌がいっぱいある。まさに戦争歌人として屈指の人だが、なかでもこの場面は抜きんでて印象的だ。戦中というのに、敵味方を超えた美談がありえたのかと。
(7月21日)
東日本大震災から3年たって、やっと新歌集を編もうかという心境になってきた。
前歌集『強霜(こはじも)』は2011年9月の刊行。編集をほぼ終わったときに大震災に見舞われた。その日をきっかけにいつになく多作になったから、編集を変更して震災詠を入れることは可能だった。
が、〈震災歌集〉として売り出す気持には全くなれなかった。2万の犠牲者と大量の被災者を身近にしながら1冊にするのは、ひどく不遜なことだと。
3年の歳月は、やっとその重ったるさを軽くしてくれた。
というわけで、2011年、12年の2年間に限定して450首ほどを編集し、やっと終わったところだ。
この作業をしながら、何度も自問したのは「震災詠とは何か」だった。現実に直面した生々しさは、確かに迫力がある。しかしことばの迫力は、それをも超えたところから生まれる。自分は、どこまで応えているか、まだわからない。
(7月20日)
下着問題には、思いのほかに長く深い性差の歴史がある。女性が男性の下着を盗んで捕まった事件は聞いたことがない。捕まるのは専ら男性だ。
男性は下着によって女性の性を連想する。しかも禁忌が介在するから連想は連想を呼び、ついにはフェティシズムへ行き着く。
もしその気になれば、使い捨て下着などはネットでいくらでも手に入るのだから、わざわざ窃盗することはない。が、禁忌がなくなると興味は減退する。
他方、下着に関する女性側の意識には違いがある。単なる実用品としてではなくほとんど美術品といっていいまでの美を備えてきたのは、必ずしも男性目線を意識するからではない。これは服飾、化粧にもいえる。
ところが両者の間に出るズレに男性も女性も案外鈍感なのである。そこに両者のミスマッチが生じる。
ではどうするか。まずズレがあるということを客観視することからはじめるしかない。
(7月12日)
新聞にはいわゆる三面記事がある。日常生活のなかで届出のあった事件・事故を扱う。私はそれを見るのが結構好きで、新聞を開くたびに目を通す。
最近多いのは、クマ目撃情報、盗撮事件、遺体発見など。
漁網を引き上げたら遺骨が混じっていたというのには、今更ながら胸が痛む。
そういうなかで、???と思う事件もある。「下着盗んだ疑いで男逮捕」というやつだ。窃盗は悪い、立派な犯罪である。しかし下着にかぎって、なぜ「窃盗」としないで、「下着」と特定するのか。しかも丁寧にも値段まで書いてある。一昨日の記事は「干してあった下着3枚(700円相当)」だ。今日もまた出ている。今度は3枚で「1万4000円相当」。
このリアリズム、なにか滑稽ではないか。ついつい、
700÷3
14000÷3
なんて、計算をしてしまう。
どうせ届け出るなら、1枚5000円ぐらいにしておけばいいのに、などと。
(7月12日)

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