2013年5月アーカイブ

結城哀草果は1893(明治26)年山形生れ。80歳で亡くなるまで農民歌人であり、茂吉の忠実な弟子でもあった。
私は長い間全歌集を所蔵していたが、まともに通読したことがない。初任校若柳高校で講演会を開くことになり、校長に講師は誰がいいかと打診された。私は某氏を候補にあげた。が、校長はなぜか哀草果を呼んだ。
彼はモンペ姿で壇上に立ち、わけのわからない話を1時間半し、生徒は飽き飽きして騒いだ。
その印象を引きずっていたので、まともに読む気になれないでいたが、「山麓」に入ったとたん、魅了されてしまった。農民でなければ歌にできない世界、しかも現在ではほぼ失われた自然と人間のテーマが展開される。

「藁打ちを終へて出づればこの里のともし火消えて月かたぶきぬ」

農閑期の作業は藁打ち。移り行く四季にまるごと身を置いてうたう。
これから数カ月は哀草果の世界にひたっていく。
(5月21日)
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▲すいせん祭り

蔵王山麓のえぼしスキー場の春は、すいせん祭で有名だ。
花の祭はいまやあちこちにあって珍しいことではないが、それでもやはり壮大な花園をまえにすると一瞬にして魂が吹き飛ぶ。
近年で特に印象的なのは、気仙沼の徳千丈山のツツジ祭。そのときは祭を知らずにたまたま見たのだが、全山真赤の迫力には文字通り魂消て(たまげて)しまった。
すいせん祭のほうはいつか行ってみたいと目論んでいた。が、満開に早すぎたり、悪天候だったりして叶わなかった。今回こそはと勢い込んで宿をとった。
だのにまたしても、あいにくの雨。オレはすいせんに縁がないなあと諦めていた翌朝、奇跡的な大快晴。
さっそく車を走らせる。すると寒い春のために10日も遅れながら、満開の頂点だった。数知れぬ花がスキー場を埋め尽くし、巨大な黄金の絨毯が天まで広がる。「あ!」と一声漏らすのみで、肝心の歌はひとつも浮かんでこなかった。
(5月17日)

コンドームを受け取った日本兵は、慰安所に殺到した。行かない兵は、根性がなっていないと制裁を受けた場合もある。
そういうなかでけっして行かなかった兵もいる。まど・みちおや宮柊二がそうだし、他にも少なからずいただろう。
私がいま問題にするのは、橋下やそれを弁護する石原慎太郎の性意識である。「ヤルーヤラレル」の関係は、そのまま性の暴力関係になる。
しかし現在の私たちには、暴力性への拒否感が生じはじめている。
安西信一『ももクロの美学』(廣済堂新書)を読み終わったところだが、「女子会」ブームに触れ、ホモソーシャルなものの拡大には「現代日本で一般に異性愛がはらんでしまう(潜在的な)暴力や面倒臭さへの嫌悪を示す」としている。
これは十分に納得できる指摘だ。女性だけでなく男性側からしても同じで、異性愛に付随しがちな暴力性への拒否感は、かなり広がってきていると私は感触する。
(5月16日)
政治の世界ではタカ派が大手を振り、好き勝手なことをはじめようとしている。
そんなときの橋下徹の風俗業発言、「言ってくれるじゃないの」としかいいようがない。命を賭ける兵隊に慰安婦制度が必要だったーーは事実としてそうだったから、まあよいとして、米軍司令官にもっと風俗業を活用して性欲を発散させてはと奨めるにいたっては、司令官ならずとも「よけいなおせわ」といいたくなる。
さすがの自民党も呆れ果てたふり、こちらまで類が及んでは大変と火消しにてんやわんやだが、肝心なのはこういうことをいわしめる性意識だ。
オトコは性欲がたまる、それを発散させるには、ヤルためのオンナが必要ーー。こういう「ヤル」という発想が根強くあり、随分長い間、生物学的にも本能に属するとみなされてきた。
日本兵も外地へ出征し、休暇で一息つくときには、ありがたくもコンドームを支給された。
(5月16日)

【往還集127】3 方言

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「心の花」5月号に、駒田晶子が

「ふぐすまのことばを語るトウキョウの役者やっぱりなぬかちがうすぺ」

を発表している。
駒田さんは福島出身、いまは仙台に住んでいるが、福島弁はもちろん身内のようなもの。この歌は「八重の桜」をみての感想かもしれない。登場する男優も女優も福島弁、とりわけ会津弁を使う。しかし地元の住人からすると、奇妙な「弁」になっている。
宮藤官九郎作の朝ドラ「あまちゃん」は、久しぶりに面白くて、私も毎日2回は見ているが、やっぱり変な岩手弁、久慈弁が続出する。
残念ながら、これは防ぎようがない。役者は一生懸命になって覚え、字面を追って「なぬかちがうすぺ」と発音する。だが「なぬがつがうすぺ」でないと、本物ではない。
もっとも全国放送の場合、本物の方言では通じない。そこで「方言+標準語」という珍奇な方言を編み出して、セリフ化しているというわけなのだ。
(5月13日)
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▲破壊された女神像。向こうに見える丸い建物が、石ノ森萬画館。

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▲波と炎に破壊しつくされた門脇小学校。

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▲門脇小学校の一階教室は、3・11の日のまま。

強風の日。東部道路を走りながら何度も横風に煽られた。
4000人近い犠牲者を出した石巻。瓦礫の山はほとんど姿を消したが、その跡は無機質の更地になったまま。
旧北上川の中州にある中瀬公園も壊滅状態。やっと石ノ森萬画館は復活した。が、公園南方に立つ自由の女神像は、腹部を深く抉られている。
波と火炎に包まれたかどのわき門脇小学校校舎は、窓という窓、壁という壁が激しく崩落した。
日和山へ登り、草に散るヤマザクラの風情と、咲きはじめたツツジの色にやっと慰められる。
忘れられていく、何もかもが置いてけぼりのまま、世はどんどん先へ進んでいく。
そして見えないところに、個別化された、貧しい実存が、小さく刻まれる。
一瞬にして生じた膨大な地獄、その非現実が現実とひとつの媒介もなしに合致してしまったあの日。あれは、どういうことだったのか、私はいまになっても、うまく筋道を描けない。
(5月8日)




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▲「東日本大震災犠牲者」碑

海沿いにはおびただしい松の倒木が残っている。
その近くに「東日本大震災慰霊之像」と、犠牲者名を刻んだ石碑が建った。総数189名。同じ姓で、57才、33才、4才、2才が並ぶ。
碑の最後は「荒井交番 渡邉武彦 58才」。避難誘導を最後までして、帰らぬ人となった巡査だ。
刻まれた文字は静かだが、ひとつひとつには掛け替えのないドラマがある。
荒浜小学校の体育館は、すっかり解体された。校舎も間もなく消えてしまう。「ありがとう!夢 希望 未来」の横断幕が3階のベランダに。自分も最後の校舎に入って、1階から4階まで巡る。散乱した物品は片づけられ、廊下もきれいに清掃されている。玄関の天井の破れ目は、雀の家になっていたらしい、数十羽が一斉に飛び出した。
人の心は置いてけぼりにされ、事態だけは「未来」へ向かってどんどん進んでいく。もう3年目。まだ3年目の気もする。
(2013年5月1日)

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