2012年8月アーカイブ

仙台の中央通から北側へと逸れ、二本目の小路に「ルフラン」(REFRAIN)というレストランがあります。ビルからさらに奥まったところにあるので、あまり目につきません。
白い壁、白いイス、グランドピアノ。中庭もあって、ビルの上から柔らかい光が射してくる。静かに流れるクラシック。まるで〈失われた時〉の世界へまぎれこんだよう。
ここを知ったのは2年前の詩の朗読会のときです。
以来、とても気に入って時々訪れては、〈失われた時〉の感じを味わっています。
今日も食後の紅茶を飲みながらぼけんとしていましたが「そうだ、気に入った場所に来たときは自由にひとりトークをしてみよう」といきなり思い立ちました。
今日がその1回目というわけです。自由なトークだから少し長くなりそう。「往還集」はいつも400字ですが、倍の長さまでのばすことにします。
シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読んだばかりなので、まずこの話題から。シモーヌは1909~1943年の生涯のフランスの女流哲学者です。頭痛の持病を持ちながらも鋭い思索を貫きつづけ、悲劇的ともいえる短い生涯を閉じました。どちらかといえば今の時代に合わない暗い哲学者なのですが、なぜか忘れがたくて何回となく著作を手にしてきました。
『重力と恩寵』は友人に託した手記で、多方面の思索でいっぱいです。私のように神の観念のないものには難解なところもありますが、「なるほど」と合点する個所も少なくありません。
たとえば、

「一つの国家は愛徳の対象とはなりえない。しかし、一つの くには、永遠の伝統を担う環境として、愛徳の対象となりうる。すべてのくにがそうなりうる。」(渡辺義愛訳)

自分だって日本国家は愛徳の対象ではない、しかし日本が好きかと問われれば、好きです。「国家」と「くに」のちがいを、まさやかな目でとらえていた哲学者がいたのです。
34歳、あまりにも短い生涯でした。
(8月28日)

「オリンピック」は17首の連作。1940年10月10日に開会。敗戦国日本の甦りを世界にアピールしようという気概もある。

「天に照る日のひかり採りし聖火いまオリンピアより東京に来ぬ」

空穂はまず聖火をうたって胸を高鳴らせる。

「腹痛を押して走れるつぶら圓や谷のゴールに入るや力尽き果つ」

死力を尽くす圓谷と、ほとんど一心同体だ。この時点ではその後の悲劇をまだ知らない。

「アベベ走る群を抜きてはひとり走るリズムに乗りて静かに早く」

裸足で走破したアベベの風格を、冷静かつ的確に描きとる。

「東洋の魔女群駆け寄りいだ抱き合ひ一団となりて泣き出しにける」

女子バレーの優勝した瞬間。空穂はいうまでもなく日本びいきであり、勝てば感涙し負ければ悔しがる。ただし外人も公平にうたう。

「勝ち残る外国選手の若き一人つつましく胸に十字を切りぬ」

緊張の聖なる瞬間をとらえるのは、さすがに歌人の目だ。
(8月20日)

窪田空穂の『去年の雪』『清明の節』を終わった。
古典の書写、その後に全歌集を少しずつ読むことを早朝の作業にしてきた。初期から晩年までの歌業をかたわらに、時間をかけて対話するというわけ。
空穂を開きはじめたのは去年の1月1日、以来1年7カ月かかったことになる。
『去年の雪』は88歳から90歳にかけての作品。老いや病苦の歌は当然出てくるが、周辺への関心の瑞々しさには感嘆させられる。息子の戦死への悲しみはいつになっても消えない。
しかしそこから軍国主義批判へ向かうかといえばそうでもない。天皇制、靖国への敬愛は一貫して変わることがない。その精神構造に私などは不可解な思いがする。
だからといって空穂の世界が帳消しになるわけではない。
この夏はロンドンオリンピック。空穂の東京オリンピック詠がちょうど同じ時期に重なってあらわれる。空穂88歳、好奇心は少しも衰えない。
(8月20日)
そういえば自分もマンガを描いたことがあったっけ。あれは確か仙台高校に勤めていた時代、30年近くも昔。
自由主義の高校に転勤した自分は、あまりの自由ぶりに愕然とした。なにしろ毎日相当数が遅刻してくる、いつの間にか早退して消える、勉強はしない。
クラスを持った自分は学級通信を発行した。日々のうっぷんを晴らすためにマンガを掲載しはじめた。題して「海の輝く日」。教室のベランダに立つと、はるかに太平洋が開けることからの命名。
おもしろいという評判が立って、某編集者が「佐藤先生のは文章よりもマンガのほうがおもしろいから一冊にしませんか」と提案してきた。「文章よりも」にカチーンときて拒否。その後転勤してどこかにしまいこんだまま。探したら書庫の奥から出てきた。下手さ加減が我ながらおもしろい。
あの時マンガ集を出して新進マンガ家になるんだった。なにもかも後の祭なれど。
(8月19日)
せんだいメディアテークのブックショップに立ち寄ったとき、風変わりな冊子を見つけた。
白地に「仙台文庫別冊 月刊佐藤純子」とあるだけで、飾り気がない。
開いてみるとマンガ集だ。なんだかおもしろそう。1000円で買って読みはじめる。冒頭は「こんにちは じゅんこです」のワンパターン、絵もうまいとはいえない、だのにふしぎな味がある。内容はふだんの生活が主で、ドジ、グーダラも隠すことがない。つまり虚飾がない。それでいて温かい人脈があって、飲み合ったり旅をし合ったり助け合ったりする。
ふつうであることも捨てたものではないなあと、郷愁のようなほっこりした思いが湧いてくる。
「著者プロフィール」によれば、1978年福島生まれ、仙台駅前の書店に勤務して10年、09年から「月刊佐藤純子」を不定期刊行。出会った人々に配ってきたのだという。こういうとらわれのなさもいい。
(8月19日)
終戦の日が近づくと「ビルマの竪琴」をみるのが習慣になった。原作は竹山道雄。映画化されたのを最初に鑑賞したのは中学のとき。その後、市川崑監督の手でリニューアルし、主役も中井貴一となった。いまみているのはこれのほうだ。
日本の敗戦そして捕虜生活。やっと帰国できることになるが、異国に倒れた同胞を葬ろうと、ビルマに留まる水島。
青年らしい一途さ、潔癖さ。
もし、自分も同じ立場になったなら、水島でありえただろうかと何度も自問してきた。高校時代も、学生時代も、社会人になってからも。その折々に、黄色の僧服の水島が直立姿であらわれる、オウムを肩に、竪琴を抱いて。
図らずも今回の大震災で、何人もの〈水島〉を知った。
そのなかの幾人かは美談となって人々を感動させたが、多くは無名の〈水島〉となって果て、辛うじて生の側に残された人も、何事もなかったように生活をはじめている。
(8月15日)
和合亮一詩集『詩の邂逅』(朝日新聞出版)には7つの対話も収められている。福島のあの日にどのように行動し思索したかを7人が語る。
私はどれにもひきつけられた。なかでも富岡町役場勤務の菅野利行氏が職員を励ましたことば、

「千年に一回のチャンスだから頑張ろうよ」「来たことは不幸だけど、こんな仕事できるのは千年に一回。いましかできないことやろう」

には、しっかりと線を引いた。
私もあの日、不安そうな近所の子どもたちに道で会うと、「せっかくのチャンスだから、なにが起きているのかよく見ておくんだよ」と伝えた。
自分は、24年まえによんだ詩集の一句を大切にしている。それは谺雄二『ライは長い旅だから』。谺はライを負う詩人だ。

「せっかくライにかかったのだから」

彼はこのようにうたう。
以来「せっかくーー」にずいぶん支えられてきた。今回もまた。「せっかく大震災にあったのだから」と。
(8月10日)
今日は河北新報本社で河北歌壇・俳壇の選者4人の座談会「言の葉の道」。花山多佳子、高野ムツオ、西山睦各氏と自分。
内容は近いうちに新聞に出るから、ここでは特に印象に残った2点について。
河北新報はまともに震災圏に位置するから、投稿作品の質量は前例のないものだった。だから「今回の震災詠はプロの歌人・俳人でなく大衆のもの」だと直感し、「震災詠を考える」の集まりも開きた。第Ⅰ部では3人の直接被災者に朗読とコメントをお願いした。肉声で伝えられるそれは文字によるものとはまるで違う迫力だった。目のまえに作り手がおり肉声があることがこんなにも大きいことだったとは。
これが1点。
もう1点は被災者の作品には迫真性があるが、小さな我が子を失った親からは届いていない。まだまだ作れる状態ではないのだろう。自分たちだって同じ立場になったら、書けるかどうか自信はないーー。
(8月9日)
朝の散歩に出かけようして、グシャリ、なにかを踏みつぶした。
デンデン。
しまった!と思うがもう遅い。よほど注意していても時々ある。
次にアリンコが目に入った。
とっさに避けようとして、右足首がクラリ。一瞬、痛みが!散歩はしばらく休止だ。
自分は仏教徒ではないが、殺生はできるだけやりたくない。
「う雨あんご安居」を思い出す。雨季を避けて修行者が集まり、瞑想することだという。
ところが別の説のあることを『親鸞と道元』(五木寛之と立松和平の対談集 祥伝社)で知った。立松が「雨安居の時期は生命が沸騰する季節で、道端に虫がいっぱいいる。それを踏まないように堂舎にこもることにしたのが雨安居だという説もあります。」と語っている。説だから真偽のほどはわからないが、この説には心がひかれる。
足の痛みはいうなれば雨安居への誘い。しばらく生類の多い山道・森道へは入らないようにしよう。
(8月9日)
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▲鈴木明君創作のこけし。

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▲店主の鈴木明君。並んでいるのは玩愚庵伝統のこけし。

今年の七夕は喧騒をさけて、里のふんいきの味わうことにした。家から近い里といえば、峠をひとつ越えたあきう秋保。さすがに温泉街は家も人も多いが、少しはずれるだけでもう緑、緑の里の風情だ。あちこちにヤマユリが咲き、セミの声ものんびりしている。
そういう場所に「秋保工芸の里」があり、こけし工房「玩愚庵」がある。工房の主鈴木明君は、35年まえの高校の教え子だ。彼は高校時代から父のあとを継ぐと決めて、こけし工人一筋でやってきた。
「玩愚庵」の基本は胴の細い、スリムな乙女こけし。それを受け継ぎ、歳を重ねるにつれて風格も出てきた。しかし彼はそれだけにとどまらない。創意工夫をこらして、おひなさまこけし、ネコこけしなどなどにも挑戦している。
時々工房を訪れると、今度はこういうのをやっていると楽しそうに話してくれる。
皆さんも秋保温泉の旅の折には、「玩愚庵」をのぞいてみてください。
(8月7日)


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