「俳句の集い」へ。「震災詠を考える~被災圏からの発信」のパート2だ。高野ムツオ氏が中心となり「小熊座」が主催した。
仙台文学館の会場は時間まえからいっぱいで、ただならぬ熱気だ。あの日からどんどん時間がたつというのに、人間のほうは少しも終息していない。それがこういう場を設けると噴出する。
私は短歌と俳句の特性を改めて考えた。短歌は抒情の「情」の分、〈事〉を目前にすると迫真性が出る。その点が俳句では希薄。だが箴言性を獲得したときの句に、短歌は太刀打ちできない。「情」を媒体とせずに、魂にまっすぐ向かってくるからだ。
その例を釜石在住の俳人照井翠(みどり)さんの句からあげておきたい。
喪へばうしなふほどに降る雪よ
春光の揺らぎにも君風にも君
桜貝海のことばはあの日棄つ
幾万の柩のための雪螢
迷ひなく来る綿虫は君なのか
なんて貌してゐるんだよ寒卵
(6月30日)
家の隣りは空地になっていて、ススキで埋めつくされる。
梅雨に入るころからウグイスが鳴きはじめる。朝、昼、夕とかけて「ホーホケキョ」をくり返す。どうやら空地に巣があるらしい。ウグイスは小さくて地味な色をしている。そのくせ声は透き通り、かなり遠くへまで伝わる。
鳴き声はふつう「ホーホケキョ」と表記するがよくよく耳を傾けるとそんなものではない。
「ホーホチキョ、キョキョキョ」
「ホーホィチョ、キトキトキト」
などなど。
このウグイス語を人間語に訳すと、
「ホー、でべそ」
「ホー、だめじゃ」
となっていく。
私ははじめのころ、ウグイスを飼わずとも飼っているようなものだと悦に入っていた。ところが庭木や電線に止まって逃げも隠れもしないさまに、「もしかして、このウグイス、人間を飼っているつもりではないか」と思えてきた。
こちらも、飼われているような、改まった気分になってきたのは不思議。
(6月29日)
「短歌研究」には「うたう☆クラブ」という欄がある。ネットで5首応募、それからコーチがえらんで双方やりとりし、作品をしあげていく。すべて横書き。結社とは全く異種の、こういう場から生まれてくるのはなにかーーに私は興味をもってきた。
10年を迎えた今月号でコーチの穂村弘、加藤治郎、小島ゆかり、栗木京子が座談している。
なぜコーチ制をとるのか。「添削はやはり文語とセット」「口語でつくる人の多くは、自分の生な感情を自己表現として歌っているという認識でみんな作るから、それを直されると「でも、自分はこう感じてないし」みたいに思ってしまう。」これは穂村の指摘。
なるほど、添削でなくコーチでなければならないわけだ。
ここには短歌領域を超えた問題があると、私は直感した。自分の感じていないことには承服しない、できないという感覚。頑固さと脆弱さを表裏にしたこの新しい感覚。
(6月27日)
『遠く離れて』から、スペースのあるかぎり秀歌を引用する、解説はぬきにして。
生きている者のおごりは世の常の離反のごとく病む人を見る
仕事にもいろいろありて延々と交合をするこの持久力
しげしげと赤子の顔を見つめたり見らるることをまだ知らぬ顔
みづからの器に生きるほかなきを沁みて思うもひとごとならず
かく青き空を見あげて身に迫る何ひとつだに知らぬ吾なり
あんた誰と見あげし顔を忘れめや朝の厨のほの暗きなか
静かだね 母つぶやけば 静かなり 恵みのごときこの世の時間
後ろ手に歩めばこの世の顛末を見抜いたような顔つきとなる
(6月26日)
大島史洋『遠く離れて』(ながらみ書房)には、2005年から08年までの作品が収録されている。この間大島は定年退職、近藤芳美を葬送し、故郷の岐阜県中津川へ行き来したはてに母を失っている。
それらの体験が歌集の主調音になっていて、感銘を覚える歌も少なくない。
が、私がいま指摘したいのは大島の目線の低さだ。
おのずから定まる位置は初めよりかくあるべしと知りいしに似る
どういう場面における歌か、前後から推し測ろうとしてもわからない。だからこちらで勝手に範囲を広げて想像するほかない。ここでは大島自身の生き様とみておく。自分が手にしたほどほどの位置、それははじめから「かくあるべし」と決まっていたかのようーー。 ここには大言壮語のかけらもない。ベターッとした、最も低い位置からの視線があるばかりだ。
これが逆に大島短歌の魅力になってきたと、私には思われる。
(6月26日)
「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。」は、原民喜「夏の花」の一句。
震災に直面し、辛うじて生者側にのこされた表現者はまず「書きのこさねば」と思った。歌をやる人は「詠いのこさねば」と思った。佐藤成晃「地津震波」。佐藤氏は1937年生まれの「音」のベテラン歌人。女川の自宅で津波に遭い、波に足をとられそうになりながらも危機一髪で助かる。その体験をもとに、私家版としてまとめた。
「走れよと妻の背中を突き出してつんのめつた手で津波を掴む」
「生き死にを訊ねて歩く町角に相抱くありともしきまでに」
「五秒差に生かされて雑居の中に覚むどの神仏か我を救ひし」
「過去持たぬ一人の我を証明する紙一枚をおし頂きぬ」
「グールルにさらされてゐる家跡にコスモス二合の種撒き帰る」
なまなましく遭遇した体験の底の底から噴出することば、そして歌。その迫力のまえに立ち尽さざるをえない。
(6月6日)
「路上」に連載してきた「宮柊二」が、この5年間で550枚ほどになった。『山西省』論をやりたくてはじめたのに、序論段階だけでこの始末。いつ終わるか見通しが立たなくなった。とりあえず「柊二初期および『群鶏』論」としてまとめることにした。出版の依頼先は、宮柊二に最も詳しい柊書房さん。
その著者校を今日終了する。引用文がいっぱいあるので、全てを原典と2度照合。「路上」連載のときも2度、原稿として送るときも2度、今回もまた2度した。
それでも誤植が見つかる。さすがに回ごとに少なくなるとはいうものの、完璧の域には達しない。一字見つけるたびに、がっくりする。
もっとも、こういう体験は今回にかぎらない、出版するたびに味わってきた。他の人も同じらしく、なかには「誤植は出版の華」と豪語する人もいる。
それはそうだが、なぜ完璧から見放され続けるのか、不思議でしかたがないのだ。
(6月5日)