2012年5月アーカイブ

これまでの時間で一番たのしいのは、子育ての時間だった。臨終を迎える瞬間にも、そう断言できる気がする。ただでさえ赤子の大好きな自分、一日ごとに成長していくさまを身近にするのは、何にもまさるたのしみだった。ものがいえるようになってからの、きらきら光るかたこと。それをメモして、小冊子にしたこともある。
ところが本多稜氏は、その黄金の時間をメモでなく歌にしてきた。『こどもたんか』(角川書店)。

「キスの音かとも思えるくしゃみしてひとつこの世のスイッチを押す」
「ふかしぎの眼に見つめらる腕の中われは銀河を洗いているや」
「数億年ひかりと水は待ちまちて今わが前に娘在らしむ」
「とっぷりと暮れてなんとかついてくる子の自転車よ螢のような」

こういう歌だけで、一冊にした。一気に読んで「やったねえ、やられたねえ」と思った。子にとっても、親にとっても一回性の貴重なこの時間! 
(5月29日)
1915年生まれだから、97歳。『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書)を一気に読んで、衰えをしらぬ真直ぐな思索には驚嘆した。自分は、生徒が荒れて授業も成立しない時代、『詞集たいまつ』を50冊そろえて、書写を課題とした。すると荒れ狂っていた生徒たちが、しーんとして取り組むではないか。
そのむのたけじが、横手にいまも健在。この本にも詞集になりそうな文がいくつもある。スペースのあるかぎり、ぬきだしてみる。

「現在は過去の子どもだ」
「歴史の証言は波しぶきではなく、波のうねりの中に聞かねばならぬ」
「地球は、その形だけでなく心も丸いたま球だ。人間たちのまっとうで強い思いは、世界じゅうのどこの人々にも届く」
「人間の尊厳を殺すものは、何であれ必ずみじめに自滅する」
「希望は常に絶望のど真ん中の、そのどん底に輝いている。前夜がつらいと、必ず朝明けはそれだけあたたかい」
(5月25日)
雨宮雅子『水の花』(角川書店)を読みながら、信仰のことを考えた。雨宮は50年籍をおいたキリスト教を離れる。その過程で抱え込む苦についてはすでに何度も歌にしている。私は子どもの日に覚えた、人間の存在について、生存についての難問に迷路状態に陥ってきた。信仰への道に入れば、理路を得られるのだなという瞬間をたびたび経験した。しかし〈神〉という概念が、どうしても身に合わなかった。
以後、難問は解決したわけでなく、未解決のまま自分自身を宙づり状態にしてきた。
雨宮の場合は入信してのち懐疑に苦しみ、離れるまでに多くの時間を要した。そのとき自在さを得ると同時に、改めて宙吊りの地点に身をおくことになったにちがいない。

「緑蔭よりわれが立ち来(こ)し籐(とう)の椅子空席なればひかり遊ばす」
「裸木となりし並木の謐(しづ)けきに厳然とあり立つといふこと」

『水の花』はこういう境地の歌を挿んでいる。
(5月23日)

島田幸典「原発と〈私性〉について」(「八雁」2012年5月号)には真直ぐな思考が認められる。原発への見解は内容や立場の是非ではなく「思考や行動の一つ一つに責任の感覚が呼び起こされるという点が重要」「原発は、関わる者の生き方に深く食いこんでくるために、主体としての自己形成を余儀なくされる」。
私は3・11以来いくつかの発言をしてきたが、基本にあるのはこれまでとかく高尚な分野におかれていた科学・哲学その他が、人間の生や生活と直結したという感覚だ。自分の生き様を賭けることなしに、何を語っても、空論になる。ましてや安全地帯に逃れたうえでの議論なら、話にならない。原発を推進したいというとき、破壊された町や避難者を見たうえでもいえるか、自身が原発地帯に住むあるいは自分の町に原発をもってくることもよしとしたうえでのことか。そういう覚悟なしの議論はもう成立しない。
(5月22日)
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▲仙台市天文台に朝からつめかけた、大勢の観察者。
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▲天文台の中では、各地の日食を放映。京都で金冠になった瞬間。
窪田空穂の歌集を少しずつ読んでいるが、今日の『丘陵地』に、

「一世紀一回といふ皆既蝕雲いできたり見えざりしとや」

があった。これは1955年のこと。雲にさえぎられて見えなかったようだ。この歌にぶつかった偶然で、心配になってきた。なにしろ空は薄曇りだ。
それでも近くの仙台市天文台には、7時前というのに老いも若きもつめかけている。なにしろ932年ぶりの金冠日食だ。こちらも朝食とトイレもそこそこに駆けつける。室内の大スクリーンには、各地の日食が映し出される。
7時20分過ぎ、ついに完全なる金冠。大きなどよめきと拍手。ただしこれは京都の映像。仙台は9割の部分日食。それでも空全体が怪しげに曇り、にわかに気温が低下してきた。
「十和田観光」の大型バスも来ているではないか。わざわざ青森からと驚いたら、仙台観光と日食がたまたまぶつかり、予定にくり入れたのだそうだ。
(5月21日)



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▲「青葉祭」中央通りを踊りまくる雀躍り。

去年実施を見送った、仙台の青葉祭。5月19、20日両日とも五月晴れに恵まれる。青葉と光と風の感触に誘われて、街へくり出し、半日過してきた。
この祭、いまでこそ人波に埋もれるほどのにぎわいだが、私が仙台商業高校に勤務した1976年ごろは、それほど注目されていなかった。少しでも見られるものにしようと、生徒達を行列に参加させたほどだ。
ところが笛と太鼓もにぎわしい雀踊りのグループが続々と誕生し、いまやひっきりなしに行進するほどになった。踊りのレベルも格段の洗練ぶり。しかも、見物客のすぐ近くで踊るから、両者一体となる。ついには、天地くつがえらんばかりの熱気になる。
祭は、たしかに日頃の憂さを吹っ飛ばしてくれる。三陸の被災地では人を喪い道具も流されたというのに、伝統の祭を挙行したところが多い。その思いが痛いほどわかる。青葉と光と風、そして人間の今日。
(5月20日)

かつて奥村晃作は新刊歌集を次々と読破し、一日一冊の割合でブログに評を掲載した。その一途さはいかにも奥村的だと舌を巻いたが、疲れ果てたか燃え尽きたかしてとうとうやめてしまった。私も歌集や歌誌はできるだけ読む。しかしノートに抄出するだけで、いちいち感想を表明することはない。
それではいけないと思い直して、できるだけ書いていくことにする。
最近注目したのは、『金の雨』。この人の時空感覚、宇宙感覚には、今どき珍しい繊細さ、純粋さがある。

見よといふこゑあるごとく寒空の遠く近くに星のみじろぐ
砂の重みに砂のくづるる音のせりこの世の果てのごとき明け方
ながき脚を芝にゆつくり運びゆく鳥のうへけふも空間のあり
うつむきて髪洗ひゐつ一群の馬ゆき過ぐるごとき雨の間

身辺の具象に染まることなく、彼方を透視するまなざし。その独自の感覚に、私は理屈ぬきにひきつけられてしまう。
(5月16日)

【往還集124】5 絵本

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▲今日読んだ絵本

近くの広瀬図書館に行くたびに、絵本の部屋にあがりこむ。そして何冊か開くことを常としているが、そのたびに児童文学から遠ざかってしまったことを、今更のごとくに悔いる。こんなにもすてきな世界があったなんて!絵本は年少者を対象としているが、その奥深さは大人の本と全くかわりない。
今日読んだのは『これは本』『しあわせの3つのおしえ』『パパとママのたからもの』。
『これは本』はレイン・スミス作、青山南訳(BL出版)。本を読んでいるサルにパソコンを持つロバがやってきて問う、「どうやってスクロールするの?」「ブログはしてる?」「キャラクターをたたかわせることはできる?」などなど。サルの答は「できない。これは本だから」だけ。ところがサルから取り上げた本を読むうちに、ロバが夢中になってしまうというストーリー。
本とパソコンという現代の問題を、まともに、簡明に問うているのだ。
(5月15日)
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▲花巻 イーハトーブ館近くにある賢治設計の「南斜花壇」。春の花で色とりどり。

花巻の賢治学会の会議へ新幹線で向かう。一ノ関を過ぎて水沢にかかるころ、北上山脈と奥羽山脈が左右に連なりはじめる。そして花巻着のころには、はるか北方に岩手山の白銀の姿が浮かび上がる。
本当は新幹線でなく、在来線のほうがゆっくり眺められるし、賢治の目に映った山や川も味わうことができるのだが。
会議まで少し時間があるので、南斜花壇へ。賢治が生前に花巻温泉の北側斜面に設計したのを、イーハトーブ館近くに復元したのである。春にふさわしい、赤・黄・白の花盛りだ。私はここに来るたびに、賢治の才質の豊饒さに、ほとほとまいってしまう。設計したときは東北が極めて貧しかった時代だ。だのにいっぱいの洋花を組み合わせ、ハイカラこのうえない花壇にした。まさに「ハイパー」である。
こういう人物が、どういうわけで此処花巻に出現したのだろうか。天の気まぐれか、それとも恩寵か。
(5月13日)

短歌分野に、自然詠が少なくなっていることは数年前から指摘されているが、3・11を境にさらに顕著になった。
「たたかいこえてたちあがる緑の山河雲はれて」と高らかに歌ったとき、思想の左派、右派を問わず「緑の山河」としての日本は誇りだった。時代とともに人事へ関心が向かうようになったとはいえ、「緑の山河」への親愛は多くの人に潜在していた。
それが一瞬にして汚れてしまった。汚れの範囲は東北のみならず関東にも広がる。私の住んでいる所は自然豊かで、春とともに新緑が吹き出す。来る年も来る年も、それは変わらない。
だのにはや、かの日の「緑の山河」ではない。山菜採りも渓流釣りもできない。捕獲されたイノシシからもセシウムが検出される。 というわけで、山や川、森や空の表情をうたおうとしても、純粋な自然詠は出てこない。これは短歌1300年の歴史になかった、全く新しい事態だ。
(5月12日)
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