2012年3月アーカイブ

朝、森の小道を散歩する。ウグイス、キジその他の小鳥の声が日毎にふえる。あちこちにフキノトウも芽を出す。
と、自分より早く散策している男性が。近くに止めてある車は秋田ナンバー。建築ラッシュなので、遠くから働きにくる人も多い。 「こんなにフキノトウがいっぱいあるのに、誰もとらないんですか」と話しかけてくる。「放射能の汚染があるので遠慮しているんです。キノコも山菜もしばらくは休みです」
「そうですか、それは......」
秋田の人は、汚染がごく周辺にも入り込んでいることをはじめて知ったようだ。
3・11以降のドキュメントは、この一年で内化した。だから表面上はどこに行ってもふつうになっている。声高に騒ぎ立てる姿はもうみられない。生きていく以上は生活しなければならない。生活するにはふつうであるほかない。
フキノトウはつぎつぎと芽を出し、ぽこぽこと頭をもたげていく。この、のどかさ。
(3月31日)
「飢餓陣営」は佐藤幹夫さんの個人編集誌。個人編集とは信じがたいほどの300頁の厚さ、そして濃密な中身だ。
その37号に「聞き書き 編集者=小川哲生」がある。小川氏といえばすぐれた見識の編集者として、多くに信頼されてきた。自分の『日本児童文学の成立・序説』も彼のお世話になった。
今回の発言のなかで印象にのこったのは、すぐれた批評を二十代から書ける人はなかなかいないという指摘だ。それなりの読書量と、読み込んで自分のものにしていく時間・力量が必要だから。二十代のころは自分の雑誌を持ったりして修業時代を送り、三十代になって少しずつ出てくる、だからどうしても十年の歳月は必要とするーー。
さすが見識ある編集者の言。
このごろ修業時代抜きにして、一発で「出世」チャンスをねらう人が多い。一発を当てて、大物になった気分でふるまう若いのがいると、俳句の分野もこぼしていた。
(3月30日)
加藤周一『日本文学史序説』は上、下巻の大著だ。1975年刊行。
私はそれをいつか読まんと購入しておいたが、なんとなく読みそびれて今日まできた。この一年、どういうわけか本質的なものに接したい気分になって日々読み進め、やっと上巻を終わった。
日本の政治・文学・宗教・美術その他への博識ぶりには、まず驚嘆する。一個人がここまで跋渉することが可能だとは。
加藤は最初に「日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。」という。
また日本文化の争うべからざる傾向は抽象的・体系的・理性的よりも具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、ことばを用いることにあると指摘する。
なるほど。この一言でさまざまな謎が氷解する。定型文学などは、なかでも典型的だ。
(3月29日)
私にはフクシマのことが他人事だとは思えない。知人の何人もが被害をこうむったという理由だけではない。
あの日、宮城県の女川原発も一触即発の状態だったからだ。もしメルトダウンが起きたらどうなったかを、私は地図上で何度もシミュレーションしてみた。原発から20キロが緊急避難区域になったとしたら、牡鹿半島、女川町のほぼ全域、石巻市も半分は入る。津波の被害の最も大きい区域だ。大川小学校のある釜谷地区も入る。
30キロに広げれば、東松島市、南三陸町にもかかる。退避命令が出たとして、多数の遺体、多数の負傷者を捨て置いて逃れることができるだろうか。そもそも道路が崩壊し、瓦礫が山とあるというのに、バスはどのようにして出入りできるだろうか。
ほんの半歩の差で、この世ならぬ地獄図が展開されるところだった。そして世界のミヤギになって、後世まで名をのこすところだった。
(3月25日)
窪田空穂全集第二巻の『明闇』を読み終わる。1945年2月に刊行されたが、戦災に遭い、戦後に『茜雲』の題で復刊される。かなりの量の戦時詠は除かれて。全集の『明闇』は敗戦前の形。
つくづく不思議というか悲惨と云うか......。窪田らしい日常詠、自然詠が健在なのに、それとほとんど陸続きに戦時詠が量産される。

「夕空の今や暗まむ水浅黄見つつしをれば命愛(かな)しも」
これなど、完成度の高い自然詠だ。ところが、
「血脈の同じ国びと事ありて凝りし力のこの一つ見よ」
のような国粋歌が次々と出てくる。しかも自然詠、日常詠と並び立って。
体の弱い吾子茂二郎応召のときも、
「父われの万歳唱へ送るらく生きよとにあらず生きて勝てよとぞ」
とうたうのがぎりぎりだった。解題の松村英一も「濁りなき純粋な心」で戦時に応じたと語る。
生活者であるとはどういうことか、空穂はこの問いを顧みさせる存在でもあった。
(3月24日)
朝のテレビニュースで吉本隆明氏の死去を知る。午前2時、肺炎、87歳。
宮沢賢治賞を受けていただいたのは2009年のこと。私も賞選考委員をしていて選考の場にいた。吉本級になると賞などいらないだろうから、断られるのではないかと案じた。ところが率直に受けてくれ、表彰式当日も花巻会場まで来てくれた。玄関に出迎えると、視力を失いしかも車椅子。お嬢さんの多子(さわこ)さんの付き添い。
「吉本さん、老いたり!」戦闘的姿を見てきたものには寂しさ限りなし。
が、講演に入るや、あふれんばかりの内容。帰りの時間が迫っているので、こちらでストップせざるをえなかった。
私は学生時代に「エリアンの手記と詩」に出会い、「試行」の読者になり、以来ほとんどを読んできた。「路上」へ激励のハガキをもらったこともある。さすがに『「反核」異論』だけは承服できなかったが。
これで、また一時代が終わる。
(3月16日)
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▲3・11一周年の今日、仙台国際センターで行われた追悼式。

昨夕は6時半から、慰霊の花火2万発打ち上げ大会が行われた。場所は泉ヶ岳スキー場。2階の窓からは、はるか遠方ながらほぼ正面に見える。靄にはばまれたのは惜しいが、和紙ににじむように赤や青、黄が広がるのは、格別の趣だった。
そして今日は、あの日から一年目。仙台国際センターで行われる追悼式に参列する。大ホールと3つの中ホールは全て満員。
14時46分を合図に、1分間の黙祷。
これで、一区切りつくことになる。
と、思おうとするそばから「なにも終わっていないではないか」というささやきも聞こえる。
今朝の新聞に、数頁にわたって犠牲者名簿が出た。その余りの多さに圧倒され、5年、10年もかけなければ切りはつけられないという感を新たにしたばかりだ。
だのに、なお生き続けるものはどこかを区切りとして、歩き出すほかにない。この矛盾を抱きながらの一周年となった。
(3月11日)

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▲図書室に掲示されている、まど・みちお作「山」。

閖上中学の図書室は施錠されていた。廊下から窓越しにのぞいたとき、壁に貼り出されている墨書を見つけた。「山」。作者は「まど・みちお」。こんなところにまどさんが生きている!家に帰って調べたら『風景詩集』にある。一連目は次のよう。

旅にでて
ふと気がついて 心なごむのは
空の とおくに
知らない山があって
知っている山のように
生まれたときからのように
こちらを見守っていてくれることだ

この学校にまど詩を好きな先生がいて、掲示してくれたにちがいない。そう思うと無残な津波の痕ながら、ほっと明りがともる気持ちになった。
まどさんはもう百歳を越えた。その人柄はまるで「山」そのものの優しさ、そして羞恥の人。「路上」も随分長く購読してくれた。自分が『詩人・まど・みちお』(北冬舎)を上梓するときも、消え入るばかりに恥ずかしがるので、こちらが恐縮してしまった。
(3月10日)

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▲校庭に今も漂着したままの船がある。

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▲校舎内に置かれたままの剥製のキジ。首を傾げたまま。

閖上の日和山に立つと、ただただ空域が広がり、宇宙の星に迷い込んだ気になる。
花束を供え、しばし額づいて、それから近くの閖上中学校に寄る。
すると校舎前の新しい石碑を、磨き上げている人がいる。慰霊の式を、除幕を兼ねて、3月11日にやるのだという。碑面には、14名ひとりひとりの名が刻み込まれている。
校庭に立つと、3隻の船が漂着したまま、錆を深くしている。校庭のすぐ下にも、舳(へさき)だけの残骸がある。
校舎は3階建。1階ずつ巡っていくと、津波寸前までのさまざまな器物、掲示物がそのままにある。音楽室のピアノ、美術室の石膏像も、波をかぶりながらも形はしっかりと留めている。剥製のキジも、「なにがあったんだい?」と問いたげに首を傾げている。
正面玄関前の時計は、2時46分で止まったまま。生徒たちはこの校舎に再び戻ることはない。すべてがこの時間で停止した。
(3月9日)




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▲荒浜地区。あちこちに黄色い旗が、はためいている。

東日本大震災一周年も間近だ。小雪ながら、花束を持って何度目かの荒浜へ。
土台だけになった敷地のあちこちに、黄色い旗がはためいている。荒浜から移転せず、ここに留まって復興させたいという住民の意志表明だ。
波打ち際を歩く。貝殻や細かいゴミが、無数に散乱する。もしかして遺骨が見つかるかと、探し歩く人影もある。行方不明者は、いまだに数千人。このあたりのどこかに潜んでいて、見つけてくれるのを、待ち続けているかもしれない。
だのに、海は、なにごともなかったように、盛り上がっては砕け、砂を滑っては引き返すのみ。「これが自然というものなのだよ、いつまで嘆いていても、甲斐のないことだよ」と、ささやくかのよう。
たしかに。一年の区切りは、死者を自然へと送り出してやる、出発の日でもある。死者を、これ以上悲しませないために、嘆くのをやめる日でもある。それが明後日だ。
(3月9日)

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