2011年7月アーカイブ

 遺歌集を読むのは、いつでも特別な思いだ。少しずつ読み進めていく。半ばを越え、後半にさしかかる。最後まで行ったら、それ以降は永遠にない。だから、 ゆっくりゆっくり読むが、いつかは終りにくる。おばばになった日の河野裕子を読みたいと思い続けてきたものには、寂しさやるかたない。だが、『蝉声』を閉 じて心に湧いてきたのは、通り一遍の感傷とはちがう、もっと大きなもの、短歌と河野裕子が一体となっている!だった。短歌は定型で、しかも文語を主とする から現代語にとっては間接的な形式だ。だが、河野にあっては、肉体と形式がほとんど分かちがたい域まで来ている。「八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわか ぬ蝉の声降る」「わかちもわかぬ」のは河野と短歌でもある。河野裕子が最後に私たちにのこしてくれたプレゼント、それは「短歌への信頼」だといまにしてい うことができる。
(7月27日)
 結局、かわいいのはわが身とわが子だ。つい先日まで「東北は美しい」などと絶賛してみせた人も、いざとなれば田舎などは捨て去る。今回のみならず、昔の 昔から同じことは繰り返されてきた。私はといえば、ぎりぎりまで留まる覚悟はできている。去る人には「どうぞ、ご随意に」といいたい。「いいたい」だか ら、そこに意志が働く。どういう論理によって「ご随意に」といえるのか、完全決着していない。つまり悟りの境地に達していない。ただし、ことばに関してい えば、留まるべき〈此処〉があるかどうかは、大きな分かれ道だ。和合亮一氏の『詩の礫』が多くの人の共感を呼んだのは、「あなたにとって故郷とはどのよう なものですか。私は故郷を捨てません。故郷は私の全てです。」の一句があったからだ。逃亡しながらツイッターを発しても、読み手に届くことはない。「あな たに〈此処〉はありますか」これが、最初で最後の問いだと思う。
(2011年7月23日)
 動かなくなった車からガソリンが抜き取られた、避難所にいる間に家財が盗まれ、金庫も車も運び去られた、遺体から貴金属類が抜き取られた----。あまりに 多くて報道もされない事件は、頻繁に起き、押しつぶされている被災者を二重に押しつぶした。これらはまぎれもない犯罪が、合法的な「てんでんこ」なら、公 然と頻発した。私のいる仙台は、放射能からはとりあえず安全とみられていた。ところが東電も政府も信頼できない空気が広まった。パソコンの情報は、放射能 に関しては危機的情報ばかり。それに恐怖感をもった人たちは、県外に脱出しはじめた。ガソリンはない、鉄道も休止だから、バスに頼るほかない。そのためバ ス停のまえには、連日長蛇の列ができた。山形空港から北海道へ、関西、九州、沖縄へと逃れていく。富裕者や外人は、海を越えて、一気に海外へ逃れる。私は これを「放射能てんでんこ」と呼ぶことにした。
(2011年7月23日)
 自分ならどうするか。もし家族が家にのこっているなら、とりわけ小さな子がいるなら、たぶん、引き返す。それによって波にのまれてもしかたがない。そも そも、なりふりかまわず生きることがいいとは思っていない。それならば逃げ延びる人に批判的かといえば、ここは年の功というべきか、いいかげんになったと いうべきか、「どうぞ、ご随意に」の気持ちになっている。ただし、目の前の事態だけは冷静に見ておきたい。大震災の取材に入った外国の記者が、一様に驚い たのは日本人の規律のすばらしさだった。暴動を起こさない、行列も乱さない、献身的であるなど、こちらが気恥ずかしくなるほどの評言。日本人を見直したと いう、中国人記者すらいる。これらに連動して「日本はすばらしい国」「日本はひとつ」と高唱し、ナショナリズを喚起しようとする動きも出る。が、私が見聞 する情報は、美しいものばかりではない。
(2011年7月22日)
 「津波てんでんこ」ということばをはじめて聞いたのは、子どもの日のこと。祖母が、明治の大津波のとき、束稲山(たばしねさん)の向うから大砲のような 音がした、戦争がはじまったのかとびっくりしたと何度も話してくれた。津波がきたらなにもかまわずに、まず逃げることだ、これを「津波てんでんこ」という とも教えてくれた。以来、何度も聞くこのことば。一人でも助かるためには必要なことだ、長年の体験から生まれた人間の知恵だと自分を納得させてきた。だの に、私はいまもってこのことばが好きになれない。自分だけは生き延びたいというエゴと、どう違うのだろうか。今回も、体の弱い家族を救おうとして家に戻 り、波に呑みこまれた人は何人もいる。住民を誘導しているうちに犠牲になった警察官・消防団員、津波情報を流すうちに逃げ遅れた人もいる。それら彼らの行 為は、「てんでんこ」の教訓に反する〈まちがい〉だったのだろうか。
(2011年7月22日)
 卒業制作を含め、校舎全体を、3・11のモニュメントとして残したい。とはいえ、遺族からしたら、わが子の命を奪った痕跡を目にするのは、とてもつらい ことだろう。残したいと思うのは、圏外の者の望みだ。遺族が残したいという気持ちになるには、時間がかかる。しかし、その間に瓦礫として処理されてしまう かもしれない。現に何台もの重機とトラックが行き来し、処理に当たっている。いっぱいの子どもたちへ、そして殉職した先生たちへ「しずかに、おやすみくだ さい」と告げて、今日は帰るほかない。濃緑の岸辺、豊かな水、広大な空。美しい風景のなかを再び戻りながら、私は心に何かが芽生えたと感じた。3・11の 日、たまたま生き残る側に区分された自分は、喜びからはほど遠く、堆積する鬱を拭いかねていた。いつまでもそれではいけない、もっと前を向かなければ。大 川を後にしながら、心に兆した芽生えの感触は、それだった。
(2011年7月11日)
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▲大川小学校 卒業制作「銀河鉄道の夜」。津波に呑まれながらも、作品をとどめていた。

 教室の棚に置かれている時計は、3時37分で止まっている。大地震がきてから、約1時間。この間、どのように対処したのかが当然問われた。殊にわが子を 喪った親たちは、やりきれない思いで問うた。なにしろ校舎のすぐ後ろは杉山だ。ここに逃げ込めばと、誰しもが考える。ただし上へ通じる道はない。それに河 口だとはいえ、海が見えず、情報も十分でない。過去に津波襲来したこともないから、住民ですら危機意識はなかった。学校では生徒を校舎外に避難させ、迎え に来た何人かの保護者には引き渡す。津波が近づいた報に、校舎に近い高台へ移動させはじめ、そこで襲われてしまった。 敷地をめぐるうちに、卒業制作の壁画が目に入る。「平成13年度制作」は、賢治の肖像と銀河鉄道を描いた力作。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩句の、 「雨」と「風」が破損し、鉄筋さえむき出しになっている。海の力は、あまりにもあまりにも強かった。
(2011年7月11日)



【往還集121】13「大川へ 3」

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▲大川小学校 二階建て校舎が津波に呑み込まれた。

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▲コンクリートの柱も、波の力で薙ぎ倒された。

 しだいに破壊された家屋、腹部をさらした船が見えてくる。その先に校舎が現れる。生徒数108人、死亡68人、行方不明6人、教員数11人、死亡9人、 行方不明1人。7割もが亡くなった大川小学校だ。全体の造りがとてもモダンな、二階建校舎。それが丸ごと波に呑まれ、太い柱も折れ曲がってしまった。校舎 入口には、慰霊の花・千羽鶴・ぬいぐるみがいっぱい供えられている。自分も用意してきた犬のぬいぐるみを供える。それから、教室へ入る。かなり片付けられ てはいるものに、個人の棚には泥にまみれた教科書・運動靴・学用品が残されらまま。持ち主は、もういない。先日訪れた荒浜小学校の破壊ぶりにも息を呑んだ が、多数の子らが助かっている。それに比してここは、ほとんどが帰らぬ人となった。この、あまりにも大きい違いに、胸がしめつけられる。今は、隅々にまで 目をやり、しっかりと記憶に刻んでおくほかにない。
(2011年7月11日)

【往還集121】12「大川へ 2」

 震災後、ちょうど4カ月目。各地で慰霊の催しもある。梅雨も明けた。今日こそ、大川へ。宮城インターから東部道路へ。この道路が防波堤の役割をはたし、 津波はせき止められた。東側にはまだ瓦礫が散在しているのに、西側は緑鮮やかな稲田が広がる。瓦礫は、ずいぶん片付いたとはいうものの、海水をかぶった田 は休耕を余儀なくされ、荒地化している。それにしても、高速道路の渋滞よ。被災者無料になって、料金所では証明書をいちいち点検する。入口も出口も大渋滞 になってしまった。市町村によっては被災審査をいちいちやっている暇がないため、全町民に許可したところもある。で、とんでもない渋滞が日常化した。やっ と河北インター着。ここから北上川沿いの道をひたすら行く。川幅は広く、水も豊か。河川敷には葦が生い茂り、大空もすぐ真上。心が洗われる牧歌的な風景 だ。だのに、ここが一瞬にして惨状の舞台となってしまった。
(2011年7月11日)

【往還集121】11「大川へ 1」

 大川小学校へ行きたい。行ってどうする?霊を慰める?哀悼する?そんなきれいごとは、許されるわけがな い。ただ、行って頭を垂れたい。そうしなければ、震災から前へ踏み出せない。そんな気持ちにかられていた。だのに、なかなか踏ん切りがつかない。その理由 は、物理的にいえば道路も災害地も救援車や工事車で混雑しており、一般車は邪魔になるだけだからだ。第二の理由は、被災圏内にいるものが惨状の地に入り込 むことの〈ルール違反感〉だ。どのような顔をして入ったらいいのか、物見遊山の顔では住人を傷つける。記者・ルポライターの顔になら、なれないことはな い。が、そんな他人行儀はとても居たたまれない。では、どんな顔で?わからない。きれいな理屈は思いつかない。だのに行きたい、行かねばと自分を促すの は、そこに起きたことがあまりにかわいそうで、つらいからだ。現場に立ちたい。そして無力に頭を垂れたい。
(2011年7月11日)


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