【往還集139】20 奇妙な同棲生活

私が身辺にしている機器は、ガラケーとパソコン2台。
パソコンは原稿入力用とメール用に使い分けています。
以前は1台ですませていたのですが、ウイルスに感染し全て消去という苦い経験があるので、2台にしました。
電車に乗ったときは、ぼんやりと景色を眺めていたいので、スマホは不要。
またパソコンで「往還集」というブログを発信していますが、視聴の人数をただちに知ろうなどと思っていないので、表示機能は削っています。
つまり人並みに現代機器は装備し、利用しているのですが、たえず外部と連絡をとり合っていたいとは全く思わないのです。
そうはいいながら、原稿の入力や、諸事の検索に利用し、アマゾンも頻繁に使っている。 
それなのに他方では最も原始的な書写を、和紙と筆ペンを使って毎朝つづけている。
どう考えても大いなる矛盾なのに、矛盾たちは奇妙に仲のいい同棲生活を営んでいるのです。
(6月13日)

【往還集139】19 森へ行く人

現在の家に引っ越して間もなく、森へ行く初老の人をよく見かけるようになりました。 
森は団地に隣接している、というよりは森を切り開いて造成したわけですから、周辺は森だらけです。
その人は、山靴に脚絆、腰には斧を装着し、いかにも山林に慣れている姿。
雑木や葎を切り開いては、獣道ならぬ人道を造っていたのかもしれません。
数年して姿を見かけなくなりました。
なんとなく気になっていたある日、半身不随の体を杖で支えている姿に会いました。もはや森へ行く精悍さはありません。
さらに数年して、その姿も見ることがなくなりました。
特に縁もゆかりもない人ですから

「この頃見えないが、どうしたのだろう」

とつぶやくだけ。
私も近辺をよく散策します。森に入ることもありますから見るともなしに見ている人もいるでしょう。そのうち思われるかもしれない、

「この頃見かけないが、どうしたのだろう」

と。
(6月13日)

【往還集139】18 藤井貞文・続

『全歌集』に収録された数は4593首。半端な数ではない。
これだけ作っているのに、歌人として評価しないのはどこか片手落ちの感じもしますが、歌人たらんとする気負いもない。それでいて、折に触れてよく作っている。
『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』で羽生善治氏は、将棋を職業としたために捨てなければならなかったのは

「駒を動かすという喜び」

と語っていました。
これだ、と私は思ったのです。
藤井はプロ級の作歌はしたものの、プロの域には入らず

「歌を動かすという喜び」

を持ちつづけたのだと。
もっとも長い人生には、戦争体験があります。敗戦も派遣された南方の地で知り、「祖国潰ゆ」を作っています。

「声あげて 泣く我が涙 永久に、この我が泪 伝へはてなむ」
「天地の神 いまさざりしか。しかにあらぬか。我の誠の はた足らざりしか」

と、激しい慟哭を全身から絞り出すように詠んだのです。
(6月12日)
歌人藤井貞文の名を『藤井貞文全歌集』(不識書院)を手にするまで、自分は知らなかった。
なんという不勉強と責められても、いいわけはできない。
けれどもしかしたら同じ人はいっぱいいるのでは。
なにしろ、「鳥船社」という折口信夫を中心とするグループに入っていたものの、歌誌に発表するわけでも歌集を出すわけでもなかった。
経歴の主要な所だけ抽出してみます。
1906(明治39)年長門の国に生まれ、国学院大に入って折口信夫と出会う。国史学者として大学に勤め、『吉田松陰』をはじめとする著作を多く刊行する。1994(平成6)88歳で死去。その娘には歌人藤井常世が、息子には詩人藤井貞和がいる。
外部に発表して歌人としての名を高めようなどと思わず、

「ただ、先生のもとで、歌を詠み、鍛錬することを喜びとしていた」

と常世さんは書いています。
こういう在り方もいいなあと私は思ったのです。
(6月12日)

【往還集139】16 ビリジャン君

イメルダ夫人がマラカニアン宮殿を去ることになって、残していったクツ・服の類が放映されたことがあります。
クツの数がなんと1060足!
専用の部屋にずらり並んださまが、今もって頭にこびりついています。
これだけの数のなかで、足にピタッとはまり、愛用されたのはどれだけあるのかと、余計なお世話と知りながら気になってきました。 
話はいきなり、スニーカー2足しかない自分に移ります。
数年まえ、緑系の色にほれこんでスニーカーを買いました。正確にいえば、ビリジャンという色名。
けれど履くたびに違和感が生じる。
生じるけれどけっこう高価だから我慢して使おうと、歳月を重ねてきました。
ところが彼はけっして妥協しない。
やむなくもうひとつ廉いのを買ったら、今度はぴったり。
もうビリジャン君とは別れようとゴミ袋に入れたとき

「うまく出会えなくて残念だったね」

という声がしました。
(6月11日)

【往還集139】15 墓碑

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▲同慶寺のなかにある素朴なお地蔵さん。

自分の死後処理の希望、それは葬儀をしないこと、墓地も持たないこと。
とはいいながら、寺院巡りが好きで、機会を見つけてはよく行きます。
最近行った市内の寺は本法寺、輪王寺、資福寺、弥勒寺、安養寺、そして今日は同慶寺。それぞれに趣があって、心に安らぎを与えてくれます。
そればかりでなく、それぞれの墓碑を巡るうちに、一族のかけがえのない歴史があれこれと思い浮かんでくるのです。
近所の同慶寺は、山林を背後にした閑静な寺。
碑名を辿るうちに、没年「昭和十八年」に目が止まるようになりました。
これはつまり自分の生年。
戦争末期で、医療も食糧も貧困。乳幼児で亡くなった人も多い。

「昭和十八年九月七日 三才」

などをまえにすると、胸が痛くなります。
しかし

「昭和十八年十月四日 百才」

も見つけました。
こういう時代でも長寿のおばあちゃんはいた!
なにか、ほっとした気持ちになったのです。
(6月8日)

【往還集139】14 メダリスト

京都産業大学の講演・対談シリーズの中心になったのは永田和宏氏。
記録集が『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(文春新書)として刊行されました。
登壇者は山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一各氏。
「何者でもなかった頃」の話はそれぞれに魅力的で、人間世界の的も射抜いている。
一例を山極(やまぎわ)氏の発言から。
チンパンジーは相手の気持ちを乱すことが大嫌いで勝敗を決しないで共存する、勝つと仲間が離れていくことを本能的に知っているーー。
ここからメダリストの話へ転調。

「オリンピックのメダリストたちは驚くほど謙虚です。自分が勝って嬉しいのはもちろんですが、一方で、自分が打ち負かした相手がいることもわかっている。あるいは自分の陰で、栄光の舞台に立てなかった人がいることも知っている。そういう人たちから恨まれたくないという気持ちを、本能的に持っているのでしょう。」
(6月6日)

【往還集139】13 〈ふるさと〉

私の母の妹は文子。
その叔母の夫は茂叔父。
ふたりとも岩手県前沢出身で、東京に住んでいました。
自分は男兄弟4人ですが、誰もがこの叔父・叔母には随分世話になってきました。
叔父は31年まえに亡くなり、伯母はこの4月に97歳の天寿を全うしました。
その納骨式に昨日参列してきたのです。
菩提寺は前沢の専念寺。
急坂をあえぎながら登って、やっと墓地に着きます。すると、町並み、田園、北上山脈が、パノラマとなって開けます。
叔父も叔母もここからの眺望が大好きで、いつか此処に帰るのが夢でした。
その夢がかなったわけですが、私にとっても、ふるさとを感じさせてくれる貴重な場所。隣接する歴史の町平泉とはちがって、ごく平凡で、ごく小さな町。
今は、奥州市前沢区となっている。
けれどここに立つたびに、〈ふるさと〉が全身を包んでくれているという気がして、深くふかーく、空気を吸いこむのです。
(6月5日)

【往還集139】12 滝

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▲鳳鳴四十六滝。青葉に囲まれた渓谷を流れ下る。

滝のまえに立つたびに、その荘厳さに打たれ、心底から尊敬したくなります。
家から割合近くにあるのは、秋保大滝。
滝壺近くまで下りて見上げると、空(くう)にせり出した水の厚みが一瞬固まる、後ろに迫る水に押し出され、そのまま落下、轟音とともにたたきつけられ、飛沫が散乱する。
もうひとつ近くにあるのは、鳳鳴四十八滝です。
これは高度があるわけではない。広瀬川上流の峡谷を、幾重にも身をくねらせながら滑走する。豪快とはべつの趣があります。
これら二つは名所にもなっていて、人も多く訪れる。
しかしほとんど人影のない滝もあります。たとえば花山の奥地の白糸の滝。
薮をかき分けてやっとたどりついた目のまえに、文字通り白い糸を寄りあわせた清涼の滝がありました。
滝は、人影があろうがなかろうが、有名であろうが無名であろうが、いつでも荘厳な姿でいる。
そのことに尊敬を覚えるのです。
(6月1日)
詩集『学校という場所で』(風詠社)の作者は、汐海治美(しおかいはるみ)さん。長い間高校に勤め、今年退職を迎えた方です。
「万穂と里菜へ」に来たとき、ただならぬ思いが湧いてきたのです。
サブタイトルに「宮城県名取市閖上海岸ふたたびの春」とあるように、閖上で亡くなった姉妹をとりあげています。
「往還集」は400字の限定で書いてきましたが、この作品は部分を紹介したのでは、うまく伝わらない。作者から了解をいただいたので、全文を引用してみます。


春を告げるものの何もない
その街で
目を瞑ると
海なりが聞こえます

それは
あなたたち家族が
茶の間であげる
穏やかな声なのだと
思いたい

あなたたち姉妹が
遠い海の底に
お母様やお祖母様と一緒にいて
残されたお父様を励ます言葉を
探しているのだと
思いたい

ねえ、万穂

津波が来ると聞いた時
あなたはどう思ったのかしら?

津波がすぐ後ろに迫った時
あなたはどう感じたのかしら?

津波の音を後ろで聞いた時
あなたは車の中で必死に走り続けようとしなかったかしら?

津波があなたを呑みこんだ時
あなたは何を願ったのかしら?

ねえ、万穂

津波があなたを乗り越えて行った時
あなたはもっと生きたいと思わなかったかしら?

津波があなたを深くさらった時
あなたは短い命を惜しんで身をくねらせて嘆かなかったかしら?

津波の黒さがあなたから光を奪った時
残される人の幸せを願わなかったかしら?

ねえ、万穂

あなたが
津波とともに自らの生を終える時
あなたは希望についてこの世の誰よりも深く考え
誰よりも神の近くにいたのだと
思いたい

そう願わせてください
この世のすべてのものとともに
そう願わせてください


閖上の姉妹が、父一人をのこして母、祖母とともに帰らぬ人となった。それが作品の背景です。
「誰よりも神の近くにいたのだと」の「神」を特定の神と考えなくていいでしょう。
また姉妹は2万人のなかのふたりであり、2万人そのものでもあります。
あの日から6年経てやっと、こういう深い祈りのこもった作品に出会えるようになりました。
(5月30日)
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